め鑑賞玩味の興に我を忘るる機会がない。平生わたくし達は心|窃《ひそか》にこの事を悲しんでいるので、ここに前時代の遺址たる菊塢が廃園の如何を論じようという心にはなろう筈がない。これが保存の法と恢復の策とを講ずる如きは時代の趨勢に反した事業であるのみならず、又既に其時を逸している。わたくし達は白鬚神社のほとりに車を棄て歩んで園の門に抵《いた》るまでの途すがら、胸中窃に廃園は唯その有るがままの廃園として之をながめたい。そして聊《いささか》たりとも荒涼寂寞の思を味い得たならば望外の幸であろうとなした。
 予め期するところは既に斯くの如くであった。これに対して失意の憾《うら》みの生ずべき筈はない。コールタを流したような真黒な溝の水に沿い、外囲いの間の小径に進入《はい》ると、さすがに若葉の下陰青々として苔の色も鮮かに、漂いくる野薔薇の花の香に虻のむらがり鳴く声が耳立って聞える。小径の片側には園内の地を借りて二階建の俗悪な料理屋がある。その生垣につづいて、傾きかかった門の廡《ひさし》には其文字も半不明となった南畝の※[#「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2−3−48]額《へんがく》が旧《きゅう》に依《よ》って来り訪《おとな》う者の歩みを引き留める。門をはいると左手に瓦葺の一棟《ひとむね》があって其縁先に陶器絵葉書のたぐいが並べてある。家の前方平坦なる園の中央は、枯れた梅樹の伐除かれた後朽廃した四阿《あずまや》の残っている外には何物もない。中井碩翁が邸址から移し来ったという石の井筒も打棄てられたまま、其来歴を示した札の文字も雨に汚れて読難くなっている。それより池のほとりに至るまで広袤およそ三四百坪もあろうかと思われる花圃は僅に草花の苗の二三尺伸びたばかり。花圃の北方、地盤の稍《やや》小高くなった処に御成座敷と称える一棟がある。百日紅の大木の蟠《わだかま》った其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程好く一目に見渡されるようになっている。苗のまだ舒《の》びない花畑は、その間の小径も明かに、端から端まで目を遮るものがないので、もう暮近いにも係らず明い心持がする。池のほとりには蒹葭が生えていたが、水は鉄漿のように黒くなって、蓮は既に根も絶えたのか浮葉もなく巻葉も見えず、この時節には噪しかるべき筈の蛙の声も聞えない。小禽や鴉の声も聞えない。時節ちがいである上に、時間もおそいので無論遊覧の人の姿も見えない。わたくし達一同の視線は唯前栽の中に咲いている箱根ウツギと池の彼方に一本生残っている老松の梢に空しく注がれるばかりであった。園主佐原氏は久しく一同とは相識の間である。下婢に茶菓を持運ばせた後、その蔵幅中の二三品を示し、また楽焼の土器に俳句を請いなどしたが、辞して来路を堤に出た。その時には日は全く暮れて往来《ゆきき》の車にはもう灯がついていた。
 昭和改元の年もわずか二三日を余すばかりの時、偶然の機会はまたもやわたくしをして同臭の二三子と共に、同じこの縁先から同じく花のない庭に対せしめた。嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。そして庭の隅々からは枯草や落葉を燬《や》く烟が土臭いにおいを園内に漲らせていた。
 わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若くはないと言うと、友は笑って、花のいまだ開かない時に看て、又花の既に散ってしまった後来り看るのは、杜樊川が緑葉成[#レ]陰子満[#レ]枝の歎きにも似ている。風流とはこんな事だろう。他の一友は更に傍より、花壇に花のないのは、あるべき筈のものが在るべき処にないのだ。之を看てよろこぶのは奇中の奇を探るもの。世には風流を解しないものも往々この奇を知る。と言出したので、一同おぼえず笑って座を立った。
[#地から1字上げ]昭和二年六月草



底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年10月10日第1刷発行
   2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年2月
   「荷風全集 第十六巻」岩波書店
   1964(昭和39)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
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