放水路
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隅田川《すみだがわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)放水路|開鑿《かいさく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]
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 隅田川《すみだがわ》の両岸は、千住《せんじゅ》から永代《えいたい》の橋畔《きょうはん》に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川《あらかわ》放水路の堤《つつみ》に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳《つまびらか》にしない。
 大正三年秋の彼岸《ひがん》に、わたくしは久しく廃《よ》していた六阿弥陀詣《ろくあみだもうで》を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺《えみょうじ》に至ろうとする途中、休茶屋《やすみぢゃや》の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然《ちょうぜん》として人に語っているのを聞いた。
 わたくしはこれに因《よ》って、初めて放水路|開鑿《かいさく》の大工事が、既に荒川の上流において着手せられていることを知ったのである。そしてその年を最後にして、再び彼岸になっても六阿弥陀に詣でることを止めた。わたくしは江戸時代から幾年となく、多くの人々の歩み馴れた田舎道の新しく改修せられる有様を見たくなかったのみならず、古い寺までが、事によると他処《よそ》に移されはしまいかと思ったからである。それに加えて、わたくしは俄《にわか》に腸を病み、疇昔《きのう》のごとく散行の興を恣《ほしいまま》にすることのできない身となった。またかつて吟行の伴侶であった親友某君が突然病んで死んだ。それらのために、わたくしは今年昭和十一年の春、たまたま放水路に架せられた江北橋《こうほくばし》を渡るその日まで、指を屈すると実に二十有二年、一たびも曾遊《そうゆう》の地を訪《おとな》う機会がなかった。

        *

 大正九年の秋であった。一日《いちじつ》深川の高橋から行徳《ぎょうとく》へ通う小さな汚い乗合《のりあい》のモーター船に乗って、浦安《うらやす》の海村に遊んだことがある。小舷《こべり》を打つ水の音が俄に耳立ち、船もまた動揺し出したので、船窓から外を見たが、窓際の席には人がいるのみならず、その硝子板《ガラスいた》は汚れきって磨《すり》硝子のように曇っている。わたくしは立って出入《でいり》の戸口へ顔を出した。
 船はいつか小名木川《おなぎがわ》の堀割を出《い》で、渺茫《びょうぼう》たる大河の上に泛《うか》んでいる。対岸は土地がいかにも低いらしく、生茂《おいしげ》る蘆《あし》より外には、樹木も屋根も電柱も見えない。此方《こなた》の岸から水の真中へかけて、草も木もない黄色の禿山《はげやま》が、曇った空に聳《そび》えて眺望を遮《さえぎ》っている。今まで荷船《にぶね》の輻湊《ふくそう》した狭い堀割の光景に馴らされていた眼には、突然濁った黄いろの河水が、岸の見えない低地の蘆をしたしつつ、満々として四方にひろがっているのを見ると、どうやら水害の惨状を望むが如く、俄に荒凉の気味が身に迫るのを覚えた。わたくしは東京の附近にこんな人跡の絶えた処があるのかと怪しみながら、乗合いの蜆売《しじみうり》に問うてここに始めて放水路の水が中川の旧流を合せ、近く海に入ることを説き聞かされた。しかしその時には船堀《ふなぼり》や葛西村《かさいむら》の長橋もまだ目にとまらなかった。
 わたくしの頽廃した健康と、日々の雑務とは、その後《ご》十余年、重ねてこの水郷《すいごう》に遊ぶことを妨げていたが、昭和改元の後、五年の冬さえまた早く尽きようとするころであった。或日、深川の町はずれを処定めず、やがて扇橋《おうぎばし》のあたりから釜屋堀《かまやぼり》の岸づたいに歩みを運ぶ中《うち》、わたくしはふと路傍の朽廃《きゅうはい》した小祠《しょうし》の前に一片の断碑を見た。碑には女木塚《おなぎづか》として、その下に、
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秋に添《そう》て行《ゆか》ばや末は小松川《こまつがわ》    芭蕉翁
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と刻してあった。わたくしはこれを読むと共に、俄にその言うがごとく、秋のながれに添うて小松川まで歩いて見ようと思い、堀割の岸づたいに、道の行くがまま歩みつづけると、忽
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