ち崩れかかった倉庫の立並ぶ空地の一隅に、中川大橋となした木の橋のかかっているのに出会った。
 わたくしは小名木川の堀割が中川らしい河の流れに合するのを知ったが、それと共に、対岸には高い堤防が立っていて、城塞のような石造の水門が築かれ、その扉はいかにも堅固な鉄板を以って造られ、太い鎖の垂れ下っているのを見た。乗合の汽船と、荷船や釣舟は皆この水門をくぐって堤の外に出て行く。わたくしは十余年前に浦安に赴く途上、初めて放水路をわたった時の荒凉たる風景を憶い浮べ、その眺望の全く一変したのに驚いて、再び眼を見張った。
 堤防には船堀橋という長い橋がかけられている。その長さは永代橋《えいたいばし》の二倍ぐらいあるように思われる。橋は対岸の堤に達して、ここにまた船堀小橋という橋につづき、更に向《むこう》の堤に達している。長い橋の中ほどに立って眺望を恣《ほしいまま》にすると、対岸にも同じような水門があって、その重い扉を支える石造の塔が、折から立籠《たちこ》める夕靄《ゆうもや》の空にさびしく聳《そび》えている。その形と蘆荻《ろてき》の茂りとは、偶然わたくしの眼には仏蘭西《フランス》の南部を流れるロオン河の急流に、古代の水道《アクワデク》の断礎の立っている風景を憶い起させた。
 来路《らいろ》を顧ると、大島町《おおじままち》から砂町《すなまち》へつづく工場の建物と、人家の屋根とは、堤防と夕靄とに隠され、唯林立する煙突ばかりが、瓦斯《ガス》タンクと共に、今しも燦爛《さんらん》として燃え立つ夕陽の空高く、怪異なる暮雲を背景にして、見渡す薄暮の全景に悲壮の気味を帯びさせている。夕陽は堤防の上下一面の枯草や枯蘆の深みへ差込み、いささかなる溜水《たまりみず》の所在《ありか》をも明《あきらか》に照し出すのみか、橋をわたる車と人と欄干の影とを、橋板の面に描き出す。風は沈静して、高い枯草の間から小禽《ことり》の群が鋭い声を放ちながら、礫《つぶて》を打つようにぱっと散っては消える。曳舟の機械の響が両岸に反響しながら、次第に遠くなって行く。
 わたくしは年もまさに尽きようとする十二月の薄暮。さながら晩秋に異らぬ烈しい夕栄《ゆうばえ》の空の下、一望際限なく、唯黄いろく枯れ果てた草と蘆とのひろがりを眺めていると、何か知ら異様なる感覚の刺戟を受け、一歩一歩夜の進み来るにもかかわらず、堤の上を歩みつづけた。そして遥か河下《かわしも》の彼方に、葛西橋の燈影のちらつくのを認めて、更にまた歩みつづけた。

        *

 葛西橋は荒川放水路に架せられた長橋の中で、その最も海に近く、その最も南の端《はず》れにあるものである。
 しかしそれを知ったのは、家《いえ》に帰って燈下に地図をひらき見てから後のことで。その夕、船堀橋から堤づたいに、葛西橋の灯を望んだ際には、橋の名も知らず、またそこから僅《わずか》四、五町にして放水路の堤防が、靴の先のような形をなして海の中に没していることなどは、勿論知ろうはずがなかった。
 夜は忽ち暗黒の中に眺望を遮るのみか、橋際に立てた掲示板《けいしいた》の文字さえ顔を近づけねば読まれぬほどにしていた。掲示は通行の妨害になるから橋の上で釣をすることを禁ずるというのである。しかしわたくしは橋の欄干に身を倚《よ》せ、見えぬながらも水の流れを見ようとした時、風というよりも頬《ほほ》に触《ふ》れる空気の動揺と、磯臭い匂と、また前方には一点の燈影《とうえい》も見えない事、それらによって、陸地は近くに尽きて海になっているらしい事を感じたのである。
 探険の興は勃然として湧起ってきたが、工場地の常として暗夜に起る不慮の禍《わざわい》を思い、わたくしは他日を期して、その夜は空しく帰路《きろ》を求めて、城東電車の境川停留場《さかいがわていりゅうじょう》に辿《たど》りついた。
 葛西橋の欄干には昭和三年一月|竣工《しゅんこう》としてある。もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層|寂寥《せきりょう》であったに相違ない。
 晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭《けんか》茫々たる浮洲《うきす》が、鰐《わに》の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔ててなお遥に、一列《いちれつ》の老松が、いずれもその幹と茂りとを同じように一方に傾けている。蘆荻《ろてき》と松の並木との間には海水が深く侵入していると見えて、漁船の帆が蘆《あし》の彼方《かなた》に動いて行く。かくの如き好景は三、四十年前までは、浅草橋場の岸あたりでも常に能《よ》く眺められたものであろう。
 わたくしは或日蔵書を整理しながら、露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]言《らんげん》』中に収められた釣魚《ちょうぎょ》の紀行をよみ、また三島政行《みしままさゆき》の『葛西志』を繙《ひ
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