もと》いた。これによって、わたくしはむかし小名木川の一支流が砂村を横断して、中川の下流に合していた事を知った。この支流は初め隠坊堀《おんぼうぼり》とよばれ、下流に至って境川、また砂村川と称せられたことをも知り得た。露伴先生の紀行によると、明治三十年頃、境川の両岸には樹木が欝蒼として繁茂していた事が思い知られるのであるが、今日そのあたりには埋立地に雑草のはびこる外《ほか》、一叢《ひとむら》の灌莽《かんもう》もない。境川は既に埋められてその跡は乗合自動車の往復する広い道になっている。
昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱《ねぎ》を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の姻突が立ち、橋だもとにはテント張りの休茶屋《やすみぢゃや》が出来、堤防の傾斜面にはいつも紙屑や新聞紙が捨ててあるようになった。乗合自動車は境川の停留場から葛西橋をわたって、一方は江戸川堤、一方は浦安の方へ往復するようになった。そして車の中には桜と汐干狩《しおひがり》の時節には、弁当付往復賃銭の割引広告が貼り出される。
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放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻《ろてき》と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素|市中《しちゅう》の百貨店や停車場《ていしゃじょう》などで、疲れもせず我先きにと先を争っている喧騒な優越人種に逢わぬことである。夏になると、水泳場また貸ボート屋が建てられる処もあるが、しかしそれは橋のかかっているあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といえども、滅多《めった》に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽《やきん》の声を聞くばかりである。
堤防は四ツ木の辺から下流になると、両岸に各一条、中間にまた一条、合せて三条ある。わたくしはいつもこの中間の堤防を歩く。
中間の堤防はその左右ともに水が流れていて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧《もうろう》とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音《あしおと》を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果《はて》だという
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