か河下《かわしも》の彼方に、葛西橋の燈影のちらつくのを認めて、更にまた歩みつづけた。

        *

 葛西橋は荒川放水路に架せられた長橋の中で、その最も海に近く、その最も南の端《はず》れにあるものである。
 しかしそれを知ったのは、家《いえ》に帰って燈下に地図をひらき見てから後のことで。その夕、船堀橋から堤づたいに、葛西橋の灯を望んだ際には、橋の名も知らず、またそこから僅《わずか》四、五町にして放水路の堤防が、靴の先のような形をなして海の中に没していることなどは、勿論知ろうはずがなかった。
 夜は忽ち暗黒の中に眺望を遮るのみか、橋際に立てた掲示板《けいしいた》の文字さえ顔を近づけねば読まれぬほどにしていた。掲示は通行の妨害になるから橋の上で釣をすることを禁ずるというのである。しかしわたくしは橋の欄干に身を倚《よ》せ、見えぬながらも水の流れを見ようとした時、風というよりも頬《ほほ》に触《ふ》れる空気の動揺と、磯臭い匂と、また前方には一点の燈影《とうえい》も見えない事、それらによって、陸地は近くに尽きて海になっているらしい事を感じたのである。
 探険の興は勃然として湧起ってきたが、工場地の常として暗夜に起る不慮の禍《わざわい》を思い、わたくしは他日を期して、その夜は空しく帰路《きろ》を求めて、城東電車の境川停留場《さかいがわていりゅうじょう》に辿《たど》りついた。
 葛西橋の欄干には昭和三年一月|竣工《しゅんこう》としてある。もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層|寂寥《せきりょう》であったに相違ない。
 晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭《けんか》茫々たる浮洲《うきす》が、鰐《わに》の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔ててなお遥に、一列《いちれつ》の老松が、いずれもその幹と茂りとを同じように一方に傾けている。蘆荻《ろてき》と松の並木との間には海水が深く侵入していると見えて、漁船の帆が蘆《あし》の彼方《かなた》に動いて行く。かくの如き好景は三、四十年前までは、浅草橋場の岸あたりでも常に能《よ》く眺められたものであろう。
 わたくしは或日蔵書を整理しながら、露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2−88−83]言《らんげん》』中に収められた釣魚《ちょうぎょ》の紀行をよみ、また三島政行《みしままさゆき》の『葛西志』を繙《ひ
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