葡萄棚
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浅草《あさくさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時|肱掛窓《ひじかけまど》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「候」のくずし字、161−10]
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 浅草《あさくさ》公園の矢場《やば》銘酒屋《めいしゅや》のたぐひ近頃に至りて大方取払はれし由《よし》聞きつたへて誰《たれ》なりしか好事《こうず》の人の仔細らしく言ひけるは、かかるいぶせき処のさまこそ忘れやらぬ中《うち》絵にも文《ふみ》にもなして写し置くべきなれ。後に至らば天明時代の蒟蒻本《こんにゃくぼん》とも相並びて風俗研究家の好資料ともなるべきにと。この言あるいは然《しか》らん。かの唐人《とうじん》孫綮《そんけい》が『北里志《ほくりし》』また崔令欽《さいれいきん》が『教坊記《きょうぼうき》』の如きいづれか才人一時の戯著《ぎちょ》ならざらんや。然るに千年の後、今なほ風流詩文をよろこぶもの必ずこれを一読せざるはなし。われさきに「大窪多与里《おおくぼたより》」と題せし文中いささか浅草のことを記せり。その一節に曰《いわ》く、
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楊弓場《ようきゅうば》の軒先に御神燈出すこといまだ御法度《ごはっと》ならざりし頃には家名《いえな》小さく書きたる店口の障子《しょうじ》に時雨《しぐれ》の夕《ゆうべ》なぞ榎《えのき》の落葉《おちば》する風情《ふぜい》捨てがたきものにて※[#「候」のくずし字、161−10]《そうら》ひき。その頃この辺の矢場の奥座敷に昼遊びせし時|肱掛窓《ひじかけまど》の側《そば》に置きたる盃洗《はいせん》の水にいかなるはづみにや屋根を蔽ふ老樹の梢を越して、夕日に染みたる空の色の映りたるを、いと不思議に打眺め※[#「候」のくずし字、162−1]事今だに記憶致をり※[#「候」のくずし字、162−2]。その頃まではこの辺の風俗も若きは天神髷《てんじんまげ》三《み》ツ輪《わ》またつぶしに結綿《ゆいわた》なぞかけ年増《としま》はおさふねお盥《たらい》なぞにゆふもあり、絆纏《はんてん》のほか羽織《はおり》なぞは着ず伝法《でんぽう》なる好みにて中には半元服《はんげんぷく》の凄き手取りもありと聞きしが
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