さき》医官渋江氏旧蔵のものが交《まじ》っていたなら、世の中の事は都《すべ》て廻り持であると言わなければならない。
 明治四十一年わたしは海外より還《かえ》って再び島田を見た時、島田は既に『古文旧書考』四巻の著者として、支那日本両国の学界に重ぜられていた。一日《いちじつ》島田はかつて爾汝《じじょ》の友であった唖々子とわたしとを新橋の一旗亭に招き、俳人にして集書家なる酒竹大野《しゃちくおおの》氏をわれわれに紹介した。その時島田と大野氏とは北品川に住んでいる渋江氏が子孫の家には、なお珍書の存している事を語り、日を期してわたしにも同行を勧めた。されば渋江氏の蔵書家であった事だけを知ったのは、わたしの方が森先生よりも時を早くしていたわけである。唖々子は二子と共に同行を約したが、その時のわたしには新刊の洋書より外には見たいものはなかったので辞して行かなかった。後三年を経ずして、わたしが少しく古文書について知らん事を欲した時、古書に精通した島田はそのために身を誤り既にこの世にはいなかったのであった。
 話は後へ戻る。その夜唖々子が運出《はこびだ》した『通鑑綱目』五十幾巻は、わたしも共に手伝って、富士
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