き》に包んで背負って歩いた。明治三十一、二年の頃のことなので、まだ電車はなかった。
 当時のわたしを知っているものは井上唖々《いのうえああ》子ばかりである。唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。
 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。
 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを幸《さいわい》、わたしは唖々子の病を東大久保|西向天神《にしむきてんじん》の傍なるその※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》に問うた。枕元に有朋堂《ゆうほうどう》文庫本の『先哲叢談』が投げ出されてあった。唖々子は英語の外に独逸語《ドイツご》にも通じていたが、晩年には専《もっぱら》漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋《ろう》なることを憤《いきどお》っていた。
 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る蕩子《とうし》のわれらがむかしに似ていることを語った。唖々子は既に形容《けいよう》枯槁《ここう》して一カ月前に見た時とは別
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