葭町《よしちょう》の芸者家町であろう。路地の内に蔵造《くらづくり》の質屋もあれば有徳《うとく》な人の隠宅《いんたく》らしい板塀も見える。わが拙作《せっさく》小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。
 路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に基《もとづ》くものである。路地を通り抜ける時|試《こころみ》に立止って向うを見れば、此方《こなた》は差迫る両側の建物に日を遮《さえぎ》られて湿《しめ》っぽく薄暗くなっている間から、彼方《かなた》遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑《にぎや》かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来《ゆきき》の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた別様《べつよう》の興趣がある。川添いの町の路地は折々|忍返《しのびがえ》しをつけたその出口から遥に河岸通《かしどおり》のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である。
 路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明《あきらか》には描き出されていない。どこから這入《はい》って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず行止《ゆきどま》りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。路地には往々江戸時代から伝承し来《きた》った古い名称がある。即ち中橋《なかばし》の狩野新道《かのうじんみち》というが如き歴史的|由緒《ゆいしょ》あるものも尠《すくな》くない。しかしそれとてもその土地に住古《すみふる》したものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て公《おおやけ》の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに門戸《もんこ》を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自《おのずか》ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目《めんぼく》体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響《じひびき》に午睡《ごすい》の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕《ゆうべ》は格子戸《こうしど》の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜《よ》は置炬燵《おきごたつ》に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引《かなぼうひき》の女房によって仔細に伝えられ、喘息持《ぜんそくもち》の隠居が咳嗽《せき》は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中《うち》に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡《すべ》てこの世界のあくまで下世話《げせわ》なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸《こうしど》、溝板《どぶいた》、物干台《ものほしだい》、木戸口《きどぐち》、忍返《しのびがえし》なぞいう道具立《どうぐだて》と一致している。この点よりして路地はまた渾然《こんぜん》たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。
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     第八 閑地

 市中《しちゅう》の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最《も》う一つある。それは閑地《あきち》である。市中繁華なる街路の間に夕顔|昼顔《ひるがお》露草|車前草《おおばこ》なぞいう雑草の花を見る閑地である。
 閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは地面師《じめんし》ならぬ限り予《あらかじ》めこれを知る事が出来ない。唯《ただ》その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は強《し》いて捜し歩かずとも市中|到《いた》るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて普請《ふしん》が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の家《うち》が取払われて、或《ある》場合には火事で焼けたりして爰《ここ》に別の閑地ができる。そして一雨《ひとあめ》降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして蝶々《ちょうちょう》蜻蛉《とんぼ》やきりぎりすの飛んだり躍《は》ねたりする野原になってしまうと、外囲《そとがこい》はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に小径《こみち》は縦横に踏開かれ、昼は子供の遊場《あそびば》、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が素人相撲《しろうとずもう》を催すのも閑地があるためである。
 市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の込合《こみあ》う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々|紺屋《こうや》の干場《ほしば》または元結《もとゆい》の糸繰場《いとくりば》なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には直《ただち》に北斎《ほくさい》の画題を思起《おもいおこ》させる。いつぞや芝白金《しばしろかね》の瑞聖寺《ずいしょうじ》という名高い黄檗宗《おうばくしゅう》の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が頻《しきり》と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその辺《へん》の貧しい人家などに対照して、私は俳人|其角《きかく》が茅場町薬師堂《かやばちょうやくしどう》のほとりなる草庵の裏手、蓼《たで》の花穂《はなほ》に出でたる閑地に、文七《ぶんしち》というものが元結こぐ車の響をば昼も蜩《ひぐらし》に聞きまじえてまた殊更の心地し、
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文七にふまるな庭のかたつむり
元結のぬる間はかなし虫の声
大絃《たいげん》はさらすもとひに落《おつ》る雁《かり》
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なぞと吟《ぎん》じたる風流の故事を思浮《おもいうか》べたのであった。この事は晋子《しんし》が俳文集『類柑子《るいこうじ》』の中《うち》北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。

 私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町《かんだみさきちょう》の調練場跡《ちょうれんばあと》は人殺《ひとごろし》や首縊《くびくくり》の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。小石川富坂《こいしかわとみざか》の片側は砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の火避地《ひよけち》で、樹木の茂った間の凹地《くぼち》には溝《みぞ》が小川のように美しく流れていた。下谷《したや》の佐竹《さたけ》ヶ|原《はら》、芝《しば》の薩摩原《さつまつばら》の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。
 銀座通に鉄道馬車が通って、数寄屋橋《すきやばし》から幸橋《さいわいばし》を経て虎《とら》の門《もん》に至る間の外濠《そとぼり》には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の日比谷《ひびや》公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に夕陽《ゆうひ》のさす景色は目《ま》のあたり武蔵野《むさしの》を見るようであった。その時分に比すれば大名小路《だいみょうこうじ》の跡なる丸《まる》の内《うち》の三菱《みつびし》ヶ|原《はら》も今は大方|赤煉瓦《あかれんが》の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は鍛冶橋《かじばし》を渡って丸の内へ這入《はい》る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故《なぜ》というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い水潦《みずたまり》が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく漂《ただよ》うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那|辺《へん》にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで幾度《いくど》も見た事があるような気がする。
 桜田見附《さくらだみつけ》の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の堀端《ほりばた》を通りながら眺めると、閑地のやや小高《こだか》くなっている処に、雑草や野蔦《のづた》に蔽《おお》われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた霞《かすみ》ヶ|関《せき》の坂に面した一方に今だに一棟《ひとむね》か二棟ほど荒れたまま立っている平家《ひらや》の煉瓦造を望むと、御老中御奉行《ごろうじゅうごぶぎょう》などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。
 明治十年頃|小林清親翁《こばやしきよちかおう》が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺《もくはんずり》にした東京名所の図の中《うち》に外《そと》桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に皇城《こうじょう》の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気《ちき》を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟《あいま》って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に去歳《きょさい》木下杢太郎《きのしたもくたろう》氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の一端《いったん》を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
 小林翁の東京風景画は古河黙阿弥《ふるかわもくあみ》の世話狂言「筆屋幸兵衛《ふでやこうべえ》」「明石島蔵《あかしのしまぞう》」などと並んで、明治初年の東京を窺《うかが》い知るべき無上の資料である。維新の当時より下《くだ》って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって甚《はなは》だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄《ひよりげた》の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉《つと》めている。しかし小林翁の版物《はんもの》に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経《た》たぬ中《うち》、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次《ぜんじ》跡方《あとかた》もなく消滅して行きつつある。明治六年|筋違見附《すじかいみつけ》を取壊してその石材を以て造った彼《か》の眼鏡橋《めがねばし》はそれと同じような形の浅草橋《あさくさばし》と共に、今日は皆鉄橋に架《か》け替えられてしまった。大川端《おおかわばた》なる元柳橋《もとやなぎばし》は水際に立つ柳と諸共《もろとも》全く跡方なく取り払われ、百本杭《ひゃっぽんぐい》はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台《とうみょうだい》、日本銀行前なる常盤橋《ときわばし》その他《た》数箇所に過ぎまい。官衙《かんが》の建築物の如きも明治当初のままなるものは、桜田外《さくらだそと》の参謀本部、神田橋内《かんだばしうち》の印刷局、江戸橋際《えどばしぎわ》の駅逓局《えきていきょく》なぞ指折り数えるほどであろう。
 閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。
 しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。芝赤羽根《しばあかば
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