で互にその傾いた廂《ひさし》を向い合せている。春秋《はるあき》時候の変り目に降りつづく大雨の度《たび》ごとに、芝《しば》と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳《たたみ》までを浸《ひた》してしまう。雨が霽《は》れると水に濡れた家具や夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を初め、何とも知れぬ汚《きたな》らしい襤褸《ぼろ》の数々は旗か幟《のぼり》のように両岸の屋根や窓の上に曝《さら》し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘《こむすめ》までが笊《ざる》や籠や桶《おけ》を持って濁流の中《うち》に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚《ざこ》を捕えようと急《あせ》っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下《もと》に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる揚合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名《ならびだいみょう》を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処《ここ》に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋《ふるかわばし》から眺める大雨の後《あと》の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。

 江戸城の濠《ほり》はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画の技《ぎ》を以てするに如《し》くはない。それ故私は唯|代官町《だいかんちょう》の蓮池御門《はすいけごもん》、三宅坂下《みやけざかした》の桜田御門《さくらだごもん》、九段坂下《くだんざかした》の牛《うし》ヶ|淵《ふち》等古来人の称美する場所の名を挙げるに留《とど》めて置く。
 池には古来より不忍池《しのばずのいけ》の勝景ある事これも今更説く必要がない。私は毎年の秋|竹《たけ》の台《だい》に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気《しき》満々たる出品の絵画よりも、向《むこう》ヶ|岡《おか》の夕陽《せきよう》敗荷《はいか》の池に反映する天然の絵画に対して杖を留《とど》むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥《はるか》に平和幸福である事を知るのである。
 不忍池は今日市中に残された池の中《うち》の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡《かがみ》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更|尋《たずね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんそうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池《ためいけ》も跡方《あとかた》なく埋《うず》めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹鬱蒼として生茂《おいしげ》る山王《さんのう》の勝地《しょうち》は、その翠緑《すいりょく》を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て造《つく》る事の出来ぬ威厳と品格とを帯《おび》させるものである。巴里《パリー》にも倫敦《ロンドン》にもあんな大きな、そしてあのように香《かんば》しい蓮《はす》の花の咲く池は見られまい。

 都会の水に関して最後に渡船《わたしぶね》の事を一言《いちごん》したい。渡船は東京の都市が漸次《ぜんじ》整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に溯《さかのぼ》ってこれを見れば元禄九年に永代橋《えいたいばし》が懸《かか》って、大渡《おおわた》しと呼ばれた大川口《おおかわぐち》の渡場《わたしば》は『江戸鹿子《えどかのこ》』や『江戸爵《えどすずめ》』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸《おうまやがし》の渡《わた》し鎧《よろい》の渡《わたし》を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成《しゅんせい》と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を窺《うかが》うばかりである。
 しかし渡場はいまだ悉《ことごと》く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見《ふじみ》の渡《わたし》、その川下に安宅《あたけ》の渡が残っている。月島《つきしま》の埋立工事が出来上ると共に、築地《つきじ》の海岸からは新に曳船《ひきふね》の渡しが出来た。向島《むこうじま》には人の知る竹屋《たけや》の渡しがあり、橋場《はしば》には橋場の渡しがある。本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ》、深川《ふかがわ》の小名木川辺《おなぎがわへん》の川筋には荷足船《にたりぶね》で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
 鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く羈旅《きりょ》とよぶ純朴なる悲哀の詩情を奪去《うばいさ》った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい緩《ゆるや》かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、河水《かわみず》に洗出《あらいだ》された木目《もくめ》の美しい木造《きづく》りの船、樫《かし》の艪《ろ》、竹の棹《さお》を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲《みめぐり》や白髭《しらひげ》に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無《ゆうむ》にかかわらずその上下《かみしも》に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希《こいねが》うのである。
 橋を渡る時|欄干《らんかん》の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を下《くだ》って水上に浮び鴎《かもめ》と共にゆるやかな波に揺《ゆ》られつつ向《むこう》の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更《ことさら》岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト敷《じき》の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道《かんどう》を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳《は》せ廻る東京市民の公生涯《こうしょうがい》とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包《ふろしきづつ》みなぞ背負《せお》ってテクテクと市中《しちゅう》を歩いている者どもには大《だい》なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に味《あじわ》われない官覚の慰安を覚えさせる。
 木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董《こっとう》の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物《ほうもつ》である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家を訪《と》うた時、座敷の床《とこ》の間《ま》にその家伝来の書画を見れば何となく奥床《おくゆか》しく自《おのずか》ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる他《た》の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を保《たも》たしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きは独《ひと》りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。
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     第七 路地

 鉄橋と渡船《わたしぶね》との比較からここに思起《おもいおこ》されるのは立派な表通《おもてどおり》の街路に対してその間々に隠れている路地《ろじ》の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の物哀《ものあわれ》にして情味の深きに似ている。式亭三馬《しきていさんば》が戯作《げさく》『浮世床《うきよどこ》』の挿絵に歌川国直《うたがわくになお》が路地口《ろじぐち》のさまを描いた図がある。歌川|豊国《とよくに》はその時代[#ここから割り注]享和二年[#ここで割り注終わり]のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『時勢粧《いまようかがみ》』の中《うち》に路地の有様を写している。路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民《さいみん》の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない種々《さまざま》なる生活が潜《ひそ》みかくれている。佗住居《わびずまい》の果敢《はかな》さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境《らくきょう》もある。すいた同士の新世帯《しんしょたい》もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう。
 今日東京の表通は銀座より日本橋通《にほんばしどおり》は勿論上野の広小路《ひろこうじ》浅草の駒形通《こまがたどおり》を始めとして到処《いたるところ》西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板|痩《や》せ衰《おとろ》えた並樹《なみき》さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、風雨雪月夕陽《ふううせつげつせきよう》等の助けを借《か》るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層《ひとしお》私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。
 路地はどうかすると横町同様|人力車《くるま》の通れるほど広いものもあれば、土蔵《どぞう》または人家の狭間《ひあわい》になって人一人やっと通れるかどうかと危《あやぶ》まれるものもある。勿論その住民の階級職業によって路地は種々異った体裁《ていさい》をなしている。日本橋際《にほんばしぎわ》の木原店《きはらだな》は軒並《のきなみ》飲食店の行燈《あんどう》が出ている処から今だに食傷新道《しょくしょうじんみち》の名がついている。吾妻橋《あずまばし》の手前|東橋亭《とうきょうてい》とよぶ寄席《よせ》の角《かど》から花川戸《はなかわど》の路地に這入《はい》れば、ここは芸人や芝居者《しばいもの》また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町《さるわかまち》の新道《しんみち》の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の賑《にぎわ》う八丁堀北島町《はっちょうぼりきたじまちょう》の路地には片側に講釈の定席《じょうせき》、片側には娘義太夫《むすめぎだゆう》の定席が向合っているので、堂摺連《どうするれん》の手拍子《てびょうし》は毎夜|張扇《はりおうぎ》の響に打交《うちまじわ》る。両国《りょうごく》の広小路《ひろこうじ》に沿うて石を敷いた小路には小間物屋|袋物屋《ふくろものや》煎餅屋《せんべいや》など種々《しゅじゅ》なる小売店《こうりみせ》の賑う有様、正《まさ》しく屋根のない勧工場《かんこうば》の廊下と見られる。横山町辺《よこやまちょうへん》のとある路地の中《なか》にはやはり立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物《ながとつつふくろもの》また筆なぞ製している問屋《とんや》ばかりが続いているので、路地一帯が倉庫のように思われる処があった。芸者家《げいしゃや》の許可された町の路地はいうまでもなく艶《なまめか》しい限りであるが、私はこの種類の中《うち》では新橋柳橋《しんばしやなぎばし》の路地よりも新富座裏《しんとみざうら》の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるように思っている。路地の最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは
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