何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋《あずまばし》や両国橋《りょうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口《かこう》の風景に一致している。

 私が十五、六歳の頃であった。永代橋の河下《かわしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕《こ》ぎ廻り、河中《かわなか》に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰って帰って来た事がある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を操《あやつ》って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思った事があった。
 やはりその時分の話である。築地《つきじ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちょうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゅ》の方まで漕ぎ上《のぼ》った帰り引汐《ひきしお》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》って来た時、突然|向《むこう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船《たかせぶね》に衝突し、幸いに一人も怪我《けが》はしなかったけれど、借りたボオトの小舷《こべり》をば散々に破《こわ》してしまった上に櫂《かい》を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も家《うち》へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が舷《ふなべり》の大破損に気のつかない中《うち》一同|一目散《いちもくさん》に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお浜御殿《はまごてん》の石垣下まで漕入《こぎい》ってから空腹を我慢しつつ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上《あが》るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように引掴《ひっつか》み、めいめい後《あと》をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、漸《やっ》と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその辺《へん》の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の何処《いずこ》にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おおかわすじ》一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あずまばし》両国橋《りょうごくばし》等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおおはし》の向《むこう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、あるいは浅草蔵前《あさくさくらまえ》の電燈会社と駒形堂《こまがたどう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《えこういん》の如き、あるいは橋場《はしば》の瓦斯《ガス》タンクと真崎稲荷《まっさきいなり》の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川《ふかがわおなぎがわ》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住《せんじゅ》より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩漫《かんまん》に過ぎている。本所小梅《ほんじょこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうじょうまち》としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって柳島《やなぎしま》の妙見堂《みょうけんどう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざわりである。

 運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲《なかず》と箱崎町《はこざきちょう》の出端《でばな》との間に深く突入《つきい》っている堀割はこれを箱崎町の永久橋《えいきゅうばし》または菖蒲河岸《しょうぶがし》の女橋《おんなばし》から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時|競《きそ》って炊烟《すいえん》を棚曳《たなび》かすさま正《まさ》に江南沢国《こうなんたくこく》の趣をなす。凡《すべ》て溝渠《こうきょ》運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように彼方《かなた》此方《こなた》から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の扇橋《おうぎばし》の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所|柳原《やなぎわら》の新辻橋《しんつじばし》、京橋八丁堀《きょうばしはっちょうぼり》の白魚橋《しらうおばし》、霊岸島《れいがんじま》の霊岸橋《れいがんばし》あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは合《がっ》する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激《あいげき》し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の中《うち》日本橋を背にして江戸橋の上より菱形《ひしがた》をなした広い水の片側《かたかわ》には荒布橋《あらめばし》つづいて思案橋《しあんばし》、片側には鎧橋《よろいばし》を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上|橋頭《きょうとう》の繁華|雑沓《ざっとう》と合せて、東京市内の堀割の中《うち》にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮《さいぼ》の夜景の如き橋上《きょうじょう》を往来する車の灯《ひ》は沿岸の燈火と相乱れて徹宵《てっしょう》水の上に揺《ゆらめ》き動く有様銀座街頭の燈火より遥《はるか》に美麗である。
 堀割の岸には処々《しょしょ》に物揚場《ものあげば》がある。市中《しちゅう》の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を留《とど》むるに足りる。夏の炎天|神田《かんだ》の鎌倉河岸《かまくらがし》、牛込揚場《うしごめあげば》の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方《うまかた》と共につかれて、河添《かわぞい》の大きな柳の木の下《した》に居眠りをしている。砂利《じゃり》や瓦や川土《かわつち》を積み上げた物蔭にはきまって牛飯《ぎゅうめし》やすいとん[#「すいとん」に傍点]の露店が出ている。時には氷屋も荷を卸《おろ》している。荷車の後押しをする車力《しゃりき》の女房は男と同じような身仕度をして立ち働き、その赤児《あかご》をば捨児《すてご》のように砂の上に投出していると、その辺《へん》には痩《や》せた鶏が落ちこぼれた餌をも※[#「求/(餮−殄)」、第4水準2−92−54]《あさ》りつくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、必《かならず》北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》い出され、自《みずか》ら絵事《かいじ》の心得なき事を悲しむのである。

 以上|河流《かりゅう》と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流をなす溝川《みぞかわ》の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々|可笑《おか》しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしょうじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがわ》と呼びまた今日では全く埋尽《うずめつく》された神田|鍛冶町《かじちょう》の下水を逢初川《あいそめがわ》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まっさき》へ出る溝川を思川《おもいがわ》、また小石川金剛寺坂下《こいしかわこんごうじざかした》の下水を人参川《にんじんがわ》と呼ぶ類《たぐい》である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おおげさ》である。かくの如くその名とその実との相伴《あいともな》わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るように地獄谷《じごくだに》[#ここから割り注]麹町にあり[#ここで割り注終わり]千日谷《せんにちだに》[#ここから割り注]四谷鮫ヶ橋にあり[#ここで割り注終わり]我善坊《がぜんぼう》ヶ|谷《だに》[#ここから割り注]麻布にあり[#ここで割り注終わり]なぞいう名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がが》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれている。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかわしま》向島《むこうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかえば》を間違えたり市中の道に迷ったりした腹立《はらだち》まぎれ、かかる地名の虚偽を以てこれまた都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。

 溝川は元より下水に過ぎない。『紫《むらさき》の一本《ひともと》』にも芝の宇田川《うだがわ》を説く条《くだり》に、「溜池《ためいけ》の屋舗《やしき》の下水落ちて愛宕《あたご》の下《した》より増上寺《ぞうじょうじ》の裏門を流れて爰《ここ》に落《おつ》る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故|宇田川橋《うだがわばし》にては少しの川のやうに見ゆれども水上《みなかみ》はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少くなかった。下水の落合って川となった流れは道に沿い坂の麓《ふもと》を廻《めぐ》り流れ流れて行く中《うち》に段々広くなって、天然の河流または海に落込むあたりになるとどうやらこうやら伝馬船《てんません》を通わせる位になる。麻布《あざぶ》の古川《ふるかわ》は芝山内《しばさんない》の裏手近くその名も赤羽川《あかばねがわ》と名付けられるようになると、山内の樹木と五重塔《ごじゅうのとう》の聳《そび》ゆる麓を巡って舟楫《しゅうしゅう》の便を与うるのみか、紅葉《こうよう》の頃は四条派《しじょうは》の絵にあるような景色を見せる。王子《おうじ》の音無川《おとなしがわ》も三河島《みかわしま》の野を潤《うるお》したその末は山谷堀《さんやぼり》となって同じく船を泛《うか》べる。
 下水と溝川はその上に架《かか》った汚い木橋《きばし》や、崩れた寺の塀、枯れかかった生垣《いけがき》、または貧しい人家の様《さま》と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。即ち小石川柳町《こいしかわやなぎちょう》の小流《こながれ》の如き、本郷《ほんごう》なる本妙寺坂下《ほんみょじざかした》の溝川の如き、団子坂下《だんござかした》から根津《ねづ》に通ずる藍染川《あいそめがわ》の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨《たいう》の降る折といえば必ず雨潦《うりょう》の氾濫に災害を被《こうむ》る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中《うち》、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋《さんのはし》に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺《ふ》いたあばら[#「あばら」に傍点]家《や》は数町に渡って、左右から濁水《だくすい》を挟《さしはさ》ん
前へ 次へ
全14ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング