なた》から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば雷門《かみなりもん》は既に焼失《やけう》せてしまったが今なお残る二王門《におうもん》をば仲店《なかみせ》の敷石道から望み見るが如き光景である。あるいはまた麻布広尾橋《あざぶひろおばし》の袂《たもと》より一本道の端《はず》れに祥雲寺《しょううんじ》の門を見る如き、あるいは芝大門《しばだいもん》の辺《へん》より道の両側に塔中《たっちゅう》の寺々|甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]を連ぬるその端れに当って遥に朱塗《しゅぬり》の楼門を望むが如き光景である。私はかくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た巴里《パリー》の凱旋門《がいせんもん》その他《た》の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、唯《ただ》何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において歌川豊春《うたがわとよはる》らの描いた浮絵《うきえ》の遠景木板画にはどうかすると真《しん》によくこの日本的感情を示したものがある。
私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの額縁《がくぶち》にして境内を窺《うかが》い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を顧《かえりみ》る光景に一段の画趣を覚える。既に『大窪《おおくぼ》だより』その他の拙著において私は寺の門口《もんぐち》からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び随身門《ずいじんもん》である事を語った。然《さ》れば今更ここにその興味を繰返して述べる必要はない。
寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、境内に入るものをしてその眺望よりして自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の心を起さしめるように造られてある。寺の門は宛《さなが》ら西洋管絃楽の序曲《プレリュード》の如きものである。最初に惣門《そうもん》ありその次に中門《ちゅうもん》あり然る後幽邃なる境内あってここに始めて本堂が建てられるのである。神社について見るもまず鳥居《とりい》あり次に楼門あり、これを過ぎて始めて本殿に到る。皆相応の距離が設けられてある。この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである。されば寺院神社の建築を美術として研究せんと欲するものは、単独にその建築を観《み》るに先立って、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かねばならぬ。これ既にゴンスやミジヨンの如き日本美術の研究者また旅行者の論ずるが如く、日本寺院の西洋と異《こと》なる所以《ゆえん》である。西洋の寺院は大抵単独に路傍《ろぼう》に屹立《きつりつ》しているのみであるが、日本の寺院に至っては如何なる小さな寺といえども皆《みな》門を控えている。芝増上寺《しばぞうじょうじ》の楼門《ろうもん》をしてかくの如く立派に見せようがためにはその門前なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。麹町日枝神社《こうじまちひえじんじゃ》の山門《さんもん》の甚だ幽邃《ゆうすい》なる理由を知らんには、その周囲なる杉の木立のみならず、前に控えた高い石段の有無《うむ》をも考えねばなるまい。日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木との寔《まこと》に複雑なる綜合美術である。されば境内の老樹にしてもしその一株《いっしゅ》を枯死《こし》せしむれば、全体より見て容易に修繕しがたき破損を来《きた》さしめた訳である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街全体をもその境内に同じきものとして取扱わねばならぬと思っている。即ちかかる市街の停車《ていしゃば》場旅館|官衙《かんが》学校|等《とう》は、その建築の体裁も出来得る限りその市街の生命たる古社寺の風致と歴史とを傷《きずつ》けぬよう、常に慎重なる注意を払うべき必要があった。しかるに近年見る所の京都の道路家屋|並《ならび》に橋梁の改築工事の如きは全く吾人《ごじん》の意表に出《い》でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業より見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみ齷齪《あくせく》して世界に二つとない自国の宝の値踏《ねぶみ》をする暇《いとま》さえないとは、あまりに小国人《しょうこくじん》の面目を活躍させ過ぎた話である。思わず畠違いへ例の口癖とはいいながら愚痴が廻り過ぎた。世の中はどうでも勝手に棕梠箒《しゅろぼうき》。私は自分勝手に唯一人|日和下駄《ひよりげた》を曳《ひ》きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。
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第六 水 附渡船
仏蘭西人《フランスじん》エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『大窪《おおくぼ》だより』の中《うち》に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河|沼沢《しょうたく》噴水|橋梁《きょうりょう》等の細節《さいせつ》にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。
今|試《こころみ》に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して今日《こんにち》においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便《べん》を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川《すみだがわ》とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌《しいか》絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水|本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ》を始め市中《しちゅう》の水流は、最早《もは》や現代のわれわれには昔の人が船宿《ふなやど》の桟橋《さんばし》から猪牙船《ちょきぶね》に乗って山谷《さんや》に通い柳島《やなぎしま》に遊び深川《ふかがわ》に戯《たわむ》れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里《パリー》におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育《ニューヨーク》のホドソン、倫敦《ロンドン》のテエムスに対するが如く偉大なる富国《ふこく》の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川《しながわ》の入海《いりうみ》と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に何方《どっち》つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。
東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川|中川《なかがわ》六郷川《ろくごうがわ》の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川《おとなしがわ》の如き細流《さいりゅう》、第四は本所深川日本橋|京橋《きょうばし》下谷《したや》浅草《あさくさ》等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川《さくらがわ》、根津《ねず》の藍染川《あいそめがわ》、麻布の古川《ふるかわ》、下谷の忍川《しのぶがわ》の如きその名のみ美しき溝渠《こうきょ》、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重《いくえ》の濠《ほり》、第七は不忍池《しのばずのいけ》、角筈十二社《つのはずじゅうにそう》の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側《みやけざかそば》の桜《さくら》ヶ|井《い》、清水谷《しみずだに》の柳《やなぎ》の井《い》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》の御福《おふく》の井《い》の如き、古来江戸名所の中《うち》に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。
東京市はかくの如く海と河と堀と溝《みぞ》と、仔細《しさい》に観察し来《きた》ればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と淀《よど》んで動かぬ死したる水とを有する頗《すこぶる》変化に富んだ都会である。まず品川の入海《いりうみ》を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来《きた》るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅《わずか》に房州通《ぼうしゅうがよい》の蒸汽船と円《まる》ッこい達磨船《だるません》を曳動《ひきうごか》す曳船の往来する外《ほか》、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海《どろうみ》である。潮《しお》の引く時|泥土《でいど》は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵《すみだわら》、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫《ふなむし》のうようよと這寄《はいよ》るばかり。この汚い溝《どぶ》のような沼地を掘返しながら折々は沙蚕《ごかい》取りが手桶《ておけ》を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みお》や粗朶《そだ》が突立《つった》っているが、これさえ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思われ、その間《あいだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》いて江戸の昔を追回《ついかい》しようとする人の眼にのみ聊《いささ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並んで泛ぶこれも無用なる御台場《おだいば》と相俟《あいま》って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房《あわ》上総《かずさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日の都会人には彼《か》の花川戸助六《はたかわどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅《いんめつ》してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじゅうろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝えた楼台《ろうだい》も今は唯《ただ》不潔なる娼家《しょうか》に過ぎぬ。明治二十七、八年頃|江見水蔭子《えみすいいんし》がこの地の娼婦を材料として描いた小説『泥水清水《どろみずしみず》』の一篇は当時|硯友社《けんゆうしゃ》の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立った大川口《おおかわぐち》の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後《ご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしゅう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが尠《すくな》くなかった。全く石川島《いしかわじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊《ていはく》するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまえせん》を見ればおのずと特種の詩情が催《もよお》される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口《かわぐち》の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐《かれん》なる彼《か》の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき
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