ね》の海軍造兵廠《かいぐんぞうへいしょう》の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯《ありまこう》の屋舗跡《やしきあと》で、現在|蠣殻町《かきがらちょう》にある水天宮《すいてんぐう》は元この邸内にあったのである。一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『東都名勝』の中《うち》赤羽根の図を見ると柳の生茂《おいしげ》った淋しい赤羽根川《あかばねがわ》の堤《つつみ》に沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続《たちつづ》いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟《のぼり》が幾筋となく閃《ひらめ》いている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁《なまこかべ》の長屋と朱塗《しゅぬり》の御守殿門《ごしゅでんもん》とは去年の春頃までは半《なか》ば崩れかかったままながらなお当時の面影《おもかげ》を留《とど》めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
 その時分――今年の五月頃の事である。友人|久米《くめ》君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚《ふるづか》が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は慶応義塾《けいおうぎじゅく》の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を踏入《ふみい》れた。猫塚の噂《うわさ》は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に小径《こみち》をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。
 私たち二人は三田通《みたどおり》に沿う外囲《そとがこい》の溝《どぶ》の縁《ふち》に立止《たちどま》って何処か這入《はい》りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも破目《やぶれめ》がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を迂廻《うかい》して赤羽根の川端まで出て見るのも業腹《ごうはら》だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも退儀《たいぎ》である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜《おんし》財団|済生会《さいせいかい》とやらいう札を下げた門口《もんぐち》を見付けて、用事あり気に其処《そこ》から構内《かまえうち》へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように寂《しん》として、更に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の本家《おもや》について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か上下二筋《うえしたふたすじ》の鉄条綱《てつじょうこう》が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った辺《あたり》から一帯に丘陵をなし、その麓《ふもと》には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く夏羽織《なつばおり》の裾《すそ》と袂《たもと》をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって向《むこう》へ出てしまった。私は生憎《あいにく》その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っていた。そればかりでない。私の穿《は》いていた藍縞仙台平《あいじませんだいひら》の夏袴《なつばかま》は死んだ父親の形見でいかほど胸高《むなだか》に締《し》めてもとかくずるずると尻下《しりさが》りに引摺《ひきず》って来る。久米君は見兼《みか》ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の鼻緒《はなお》を踏〆《ふみし》め、紬《つむぎ》の一重羽織《ひとえばおり》の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の股立《もちだち》を取ると、図抜けて丈《せい》の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から一跨《ひとまた》ぎに跨いでしまった。
 二人は早速|閑地《あきち》の草原を横切って、大勢《おおぜい》釣する人の集っている古池の渚《なぎさ》へと急いだ。池はその後に聳《そび》ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米《くるめ》二十余万石の城主の館《やかた》が築かれていた時分には、現在水の漂《ただよ》っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気《おぼろげ》ながら心の中《うち》に描出《えがきだ》した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気《おしげ》もなく破壊して兵営や兵器の製造場《せいぞうば》にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更《いまさら》の如くつくづくと思知るのであった。
 池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ賑《にぎやか》さである。鰌《どじょう》と鮒《ふな》と時には大きな鰻《うなぎ》が釣れるという事だ。私たちは水際《みずぎわ》を廻って崖の方へ通ずる小径《こみち》を攀登《よじのぼ》って行くと、大木の根方《ねがた》に爺《じじい》が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの親爺《おやじ》の商法にさすがのわれわれも聊《いささ》か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の所在《ありか》を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方《かなた》なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで委《くわ》しく話してくれた。
 名所古蹟は何処《いずく》に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯《ただ》その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋《つな》がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の台石《だいいし》であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く見下《みおろ》す崖地《がけち》の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の根方《ねがた》と、また深く雑草に埋《うず》められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち転《ころ》げている石を見つけたばかりである。しかしここに来《きた》るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも幽邃《ゆうすい》なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳|椎《しい》樫《かし》杉椿なぞの大木に交《まじ》って扇骨木《かなめ》八《や》ツ手《で》なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様|七重八重《ななえやえ》にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の撓《たわ》むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ寄生木《やどりぎ》が大樹の瘤《こぶ》や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく囀《さえず》る小鳥の声が鋭く梢《こずえ》から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に袴《はかま》の裾《すそ》を潤《うるお》しながら、この森蔭の小暗《おぐら》い片隅から青葉の枝と幹との間を透《すか》して、彼方《かなた》遥かに広々した閑地の周囲の処々《しょしょ》に残っている練塀《ねりべい》の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯|惆恨《ちゅうちょう》として去るに忍びざるが如くいつまでも彳《たたず》んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度《ひとたび》破壊されたその跡がここに年を経て折角|荒蕪《こうぶ》の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して前以《まえもっ》て深く嘆息したのである。

 私は雑草が好きだ。菫《すみれ》蒲公英《たんぽぽ》のような春草《はるくさ》、桔梗《ききょう》女郎花《おみなえし》のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地《あきち》に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝《どぶ》の縁《ふち》に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「蚊帳釣草《かやつりぐさ》」の穂の練絹《ねりぎぬ》の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「赤《あか》の飯《まま》」の花の暖そうに薄赤き、「車前草《おおばこ》」の花の爽《さわやか》に蒼白《あおじろ》き、「※[#「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《はこべ》」の花の砂よりも小くして真白《ましろ》なる、一ツ一ツに見来《みきた》れば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐《かれん》なる風情《ふぜい》があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも咏《うた》われず、宗達《そうだつ》光琳《こうりん》の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の描いた『絵本|虫撰《むしえらび》』を愛して止《や》まざる理由は、この浮世絵師が南宗《なんそう》の画家も四条派《しじょうは》の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花《そうか》と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取《ひろいと》って、自由にこれを芸術化せしめた大《だい》なる功績を担《にな》うものである。
 私は近頃|数寄屋橋外《すきやばしそと》に、虎の門|金毘羅《こんぴら》の社前に、神田|聖堂《せいどう》の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

 戸川秋骨《とがわしゅうこつ》君が『そのままの記』に霜の戸山《とやま》ヶ|原《はら》という一章がある。戸山ヶ原は旧|尾州侯御下屋舗《びしゅうこうおしもやしき》のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場《しゃてきば》となっている。この辺《あたり》豊多摩郡《とよたまごおり》に属し近き頃まで杜鵑花《つつじ》の名所であったが、年々人家|稠密《ちゅうみつ》していわゆる郊外の新開町《しんかいまち》となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君|曰《いわ》く
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戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開《こうかい》した地《ち》である。目白《めじろ》の奥から巣鴨《すがも》滝《たき》の川《がわ》へかけての平野は、さらに広い武蔵野《むさしの》の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡《すべ》て耒耜《らいし》が加えられている。立派に耕作された畠地《はたち》である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹《たちき》が沢山にある。大きくはないが喬木《きょうぼく》が立ち籠《こ》めて叢林《そうりん》を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処《ここ》にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽《おお》われていて、春は摘草《つみくさ》に児女《じじょ》の自由に遊ぶに適し、秋は雅人《がじん》の擅《ほしいまま》に散歩するに任《まか》す。四季の何時《いつ》と言わず、絵画の学生が此処《ここ》其処《そこ》にカンヴァスを携《たずさ》えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他《た》の場所に求むべからざるものである。凡《およ》そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇《ちゅうちょ》しない。
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