ね》の海軍造兵廠《かいぐんぞうへいしょう》の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯《ありまこう》の屋舗跡《やしきあと》で、現在|蠣殻町《かきがらちょう》にある水天宮《すいてんぐう》は元この邸内にあったのである。一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『東都名勝』の中《うち》赤羽根の図を見ると柳の生茂《おいしげ》った淋しい赤羽根川《あかばねがわ》の堤《つつみ》に沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続《たちつづ》いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟《のぼり》が幾筋となく閃《ひらめ》いている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁《なまこかべ》の長屋と朱塗《しゅぬり》の御守殿門《ごしゅでんもん》とは去年の春頃までは半《なか》ば崩れかかったままながらなお当時の面影《おもかげ》を留《とど》めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
その時分――今年の五月頃の事である。友人|久米《くめ》君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚《ふるづか》が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は慶応義塾
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