としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に去歳《きょさい》木下杢太郎《きのしたもくたろう》氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の一端《いったん》を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
 小林翁の東京風景画は古河黙阿弥《ふるかわもくあみ》の世話狂言「筆屋幸兵衛《ふでやこうべえ》」「明石島蔵《あかしのしまぞう》」などと並んで、明治初年の東京を窺《うかが》い知るべき無上の資料である。維新の当時より下《くだ》って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって甚《はなは》だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄《ひよりげた》の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉《つと》めている。しかし小林翁の版物《はんもの》に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経《た》たぬ中《うち》、更に更に新しい第二の東京なるものの発
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