ことの出来ぬ平民は大道と大道との間に自《おのずか》ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目《めんぼく》体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響《じひびき》に午睡《ごすい》の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕《ゆうべ》は格子戸《こうしど》の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜《よ》は置炬燵《おきごたつ》に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引《かなぼうひき》の女房によって仔細に伝えられ、喘息持《ぜんそくもち》の隠居が咳嗽《せき》は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中《うち》に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡《すべ》てこの世界のあくまで下世話《げせわ》なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸《こうしど》、溝板《どぶいた》、物干台《ものほしだい》、木戸口《きどぐち》、忍返《しのびがえし》なぞいう道具立《どうぐだて》と一致している。この点よりして路地はまた渾然《こんぜん》たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。
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