上に浮び鴎《かもめ》と共にゆるやかな波に揺《ゆ》られつつ向《むこう》の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更《ことさら》岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト敷《じき》の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道《かんどう》を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳《は》せ廻る東京市民の公生涯《こうしょうがい》とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包《ふろしきづつ》みなぞ背負《せお》ってテクテクと市中《しちゅう》を歩いている者どもには大《だい》なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に味《あじわ》われない官覚の慰安を覚えさせる。
木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董《こっとう》の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物《ほうもつ》である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれ
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