京の都市が漸次《ぜんじ》整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に溯《さかのぼ》ってこれを見れば元禄九年に永代橋《えいたいばし》が懸《かか》って、大渡《おおわた》しと呼ばれた大川口《おおかわぐち》の渡場《わたしば》は『江戸鹿子《えどかのこ》』や『江戸爵《えどすずめ》』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸《おうまやがし》の渡《わた》し鎧《よろい》の渡《わたし》を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成《しゅんせい》と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を窺《うかが》うばかりである。
 しかし渡場はいまだ悉《ことごと》く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見《ふじみ》の渡《わたし》、その川下に安宅《あたけ》の渡が残っている。月島《つきしま》の埋立工事が出来上ると共に、築地《つきじ》の海岸からは新に曳船《ひきふね》の渡しが出来た。向島《むこうじま》には人の知る竹屋《たけや》の渡しがあり、橋場《はしば》には橋場の渡しがある。本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ
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