。その夏始めて両国《りょうごく》の水練場《すいれんば》へ通いだしたので、今度は繁華の下町《したまち》と大川筋《おおかわすじ》との光景に一方《ひとかた》ならぬ興《きょう》を催すこととなった。
今日《こんにち》東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿《たど》るに外ならない。これに加うるに日々《にちにち》昔ながらの名所古蹟を破却《はきゃく》して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味《あじわ》おうとしたら埃及《エジプト》伊太利《イタリー》に赴《おもむ》かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷《いた》ましい思《おもい》をさせる処はあるまい。今日《きょう》看《み》て過ぎた寺の門、昨日《きのう》休んだ路傍《ろぼう》の大樹もこの次再び来る時には必《かならず》貸家か製造場《せいぞうば》になっているに違いないと思えば、それほど由緒《ゆかり》のない建築もまたはそれほど年経《としへ》ぬ樹木とても何とはなく奥床《おくゆか》しくまた悲しく打仰《うちあお》がれるのである。
一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足
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