と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な市中《しちゅう》からも日本晴《にほんばれ》の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚《ぐ》にもつかぬ事を考え出す。私は外濠《そとぼり》の土手に残った松の木をば雪の朝《あした》月の夕《ゆうべ》、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として悦《よろこ》ぶにつけて、近頃|四谷見附内《よつやみつけうち》に新築された大きな赤い耶蘇《やそ》の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、一度《ひとたび》市内に残された寺院神社を訪《と》えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い境内《けいだい》も私の心には無限の慰藉《いしゃ》を与えずにはいない。
 私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も幽邃《ゆうすい》の感を与えられるのは、境内に進入《すすみい》って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、路傍に立つ惣門《そうもん》を潜《くぐ》り、彼方《かなた》なる境内の樹木と本堂鐘楼|等《とう》の屋根を背景にして、その前に聳《そび》える中門《ちゅうもん》または山門をば、長い敷石道の此方《こ
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