中《しちゅう》を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば諸処《しょしょ》の重立《おもだ》った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。下谷佐竹《したやさたけ》の屋敷は調練場《ちょうれんば》となり、市ヶ谷と戸塚村《とつかむら》なる尾州侯《びしゅうこう》の藩邸、小石川なる水戸の館第《かんてい》も今日われわれの見る如く陸軍の所轄《しょかつ》となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。鉄砲洲《てっぽうず》なる白河楽翁公《しらかわらくおうこう》が御下屋敷《おしもやしき》の浴恩園《よくおんえん》は小石川の後楽園《こうらくえん》と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集《よりあつま》って酒を呑む倶楽部《クラブ》のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西《フランス》革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。何故《なにゆえ》なれば、仏蘭西の市民《シトワイヤン》は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を壊《こぼ》ちはしなかったからで
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