は四谷見附《よつやみつけ》を出てから迂曲《うきょく》した外濠の堤《つつみ》の、丁度その曲角《まがりかど》になっている本村町《ほんむらちょう》の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込《うしごめ》を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷|八幡《はちまん》の桜早くも散って、茶《ちゃ》の木《き》稲荷《いなり》の茶の木の生垣《いけがき》伸び茂る頃、濠端《ほりばた》づたいの道すがら、行手《ゆくて》に望む牛込小石川の高台かけて、緑《みどり》滴《したた》る新樹の梢《こずえ》に、ゆらゆらと初夏《しょか》の雲凉し気《げ》に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの辺《あたり》を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明《てんめい》時代の風流を思起《おもいおこ》すのである。『狂歌|才蔵集《さいぞうしゅう》』夏の巻《まき》にいわずや、
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首夏《しゅか》
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[#地から10字上げ]馬場金埒《ばばきんらち》
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花はみなおろし大根《だいこ》となりぬらし鰹《かつお》に似たる
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