際《みずぎわ》の柳の井戸の所に唯|一株《ひとかぶ》の柳があるばかりである。余の卑見《ひけん》を以てすれば、水を隔《へだ》てて対岸なる古城の石垣と老松を望まんには、此方の堤に柳あるは眺望を遮《さえぎ》りまた眼界を狭くするの嫌《きらい》あるが故にむしろなきに如《し》くはない。いわんやかかる処に西洋風の楓《かえで》の如きを植うるにおいてをや。
 東京市は頻《しきり》に西洋都市の外観に倣《なら》わんと欲して近頃この種の楓または橡《とち》の類《たぐい》を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは赤坂《あかさか》紀《き》の国坂《くにざか》の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀《すじべい》に対して異国種《いこくだね》の楓の並木は何たる突飛《とっぴ》ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通《ぎんざこまがたにんぎょうちょうどおり》の柳の木《こ》かげに夏の夜《よ》の露店|賑《にぎわ》う有様は、煽風器《せんぷうき》なくとも天然の凉風自在に
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