》が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面《かわづら》籠《こむ》る朝霧に両国橋|薄墨《うすずみ》にかすみ渡りたる此方《こなた》の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜《ななめ》になりて立つ。その木蔭《こかげ》に縞《しま》の着流《きながし》の男一人手拭を肩にし後向《うしろむ》きに水の流れを眺めている。閑雅《かんが》の趣|自《おのずか》ら画面に溢れ何となく猪牙舟《ちょきぶね》の艪声《ろせい》と鴎《かもめ》の鳴く音《ね》さえ聞き得るような心地《ここち》がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸《かし》の様子も変り小流《こながれ》も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。
 半蔵御門《はんぞうごもん》より外桜田《そとさくらだ》の堀あるいはまた日比谷馬場先和田倉御門外《ひびやばばさきわだくらごもんそと》へかけての堀端《ほりばた》には一斉に柳が植《うわ》っていて処々に水撒《みずまき》の車が片寄せてある。この柳は恐らく明治になってから植えたものであろう。広重が東都名勝の錦絵の中《うち》外桜田の景を看《み》ても堀端の往来際《おうらいぎわ》には一本の柳とても描かれてはいない。土手を下りた水
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