。単に可笑《おか》しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。
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     第三 樹

 目に青葉|山《やま》時鳥《ほととぎす》初鰹《はつがつお》。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字にいい尽《つく》されている。北斎《ほくさい》及び広重《ひろしげ》らの江戸|名所絵《めいしょえ》に描《えが》かれた所、これを文字《もんじ》に代えたならば、即ちこの一句に尽きてしまうであろう。
 東京はその市内のみならず周囲の近郊まで日々《にちにち》開けて行くばかりであるが、しかし幸にも社寺の境内、私人《しじん》の邸宅、また崖地《がけち》や路《みち》のほとりに、まだまだ夥《おびただ》しく樹木を残している。今や工揚《こうじょう》の煤烟《ばいえん》と電車の響とに日本晴《にほんばれ》の空にも鳶《とんび》ヒョロヒョロの声|稀《まれ》に、雨あがりのふけた夜に月は出ても蜀魂《ほととぎす》はもう啼《な》かなくなった。初鰹の味《あじわい》とてもまた汽車と氷との便あるがために昔のようにさほど珍
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