の出来ない平凡な景色である。譬《たと》えば砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煉瓦塀《れんがべい》にその片側を限られた小石川の富坂《とみざか》をばもう降尽《おりつく》そうという左側に一筋の溝川《みぞかわ》がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》の方へと曲って行く横町なぞ即《すなわち》その一例である。両側の家並《やなみ》は低く道は勝手次第に迂《うね》っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの硝子戸《ガラスど》なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの閃《ひらめ》く外《ほか》には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、仕立屋《したてや》芋屋|駄菓子屋《だがしや》挑灯屋《ちょうちんや》なぞ昔ながらの職業《なりわい》にその日の暮しを立てている家《うち》ばかりである。私は新開町《しんかいまち》の借家《しゃくや》の門口《かどぐち》によく何々商会だの何々事務所なぞという木札《きふだ》のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに引《ひき》かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧し
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