た。私はシャワンの描《えが》いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里《パリー》の夜景を見下《みおろ》している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
 鐘の音《ね》は長い余韻の後を追掛け追掛け撞《つ》き出されるのである。その度《たび》ごとにその響の湧出《わきいづ》る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄《ききす》ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段《はしごだん》を上《あが》って来られたのである。金巾《かなきん》の白い襯衣《シャツ》一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿《は》いておられたので、何の
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