事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧《すす》められる。もし先生の生涯に些《いささ》かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
 この夕《ゆうべ》、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺《うかが》って、夜《よ》も九時過再び千駄木の崖道をば根津権現《ねづごんげん》の方へ下《お》り、不忍池《しのばずのいけ》の後《うしろ》を廻ると、ここにも聳《そび》え立つ東照宮《とうしょうぐう》の裏手一面の崖に、木《こ》の間《ま》の星を数えながらやがて広小路《ひろこうじ》の電車に乗った。

 私の生れた小石川《こいしかわ》には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷《みょうがだに》の小径《こみち》から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂《きりしたんざか》が斜《ななめ》に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向
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