られて跡方もなきところ尠《すくな》からざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋《いまどばし》は蚤《はや》くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草《つゆくさ》の花を見ず。桜田御門外《さくらだごもんそと》また芝赤羽橋|向《むこう》の閑地《あきち》には土木の工事今まさに興《おこ》らんとするにあらずや。昨日の淵《ふち》今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙《つたな》きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯《いつぼう》の年晩秋
[#地から2字上げ]荷風小史
[#改訂]

     第一 日和下駄

 人並はずれて丈《せい》が高い上にわたしはいつも日和下駄《ひよりげた》をはき蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って歩く。いかに好《よ》く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中|湿気《しっけ》の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上《かみ》の御政事《おせいじ》とばかり極《きま》ったものではない。春の花見頃|午前《ひるまえ》の晴天は午後《ひるすぎ》の二時三時頃からきまって風にならねば夕方か
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