小暗《おぐら》い片隅から青葉の枝と幹との間を透《すか》して、彼方《かなた》遥かに広々した閑地の周囲の処々《しょしょ》に残っている練塀《ねりべい》の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯|惆恨《ちゅうちょう》として去るに忍びざるが如くいつまでも彳《たたず》んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度《ひとたび》破壊されたその跡がここに年を経て折角|荒蕪《こうぶ》の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して前以《まえもっ》て深く嘆息したのである。

 私は雑草が好きだ。菫《すみれ》蒲公英《たんぽぽ》のような春草《はるくさ》、桔梗《ききょう》女郎花《おみなえし》のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地《あきち》に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝《どぶ》の縁《ふち》に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「蚊帳釣草《かやつりぐさ》」の穂の練絹《ねりぎぬ》の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「赤《あか》の飯《まま》」の花の暖そうに薄赤き、「車前草《おおばこ》」の花の爽《さわやか》に蒼白《あおじろ》き、「※[#「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1−91−43]※[#「くさかんむり/婁」、第3水準1−91−21]《はこべ》」の花の砂よりも小くして真白《ましろ》なる、一ツ一ツに見来《みきた》れば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐《かれん》なる風情《ふぜい》があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも咏《うた》われず、宗達《そうだつ》光琳《こうりん》の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の描いた『絵本|虫撰《むしえらび》』を愛して止《や》まざる理由は、この浮世絵師が南宗《なんそう》の画家も四条派《しじょうは》の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花《そうか》と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取《ひろいと》って、自由にこれを芸術化せしめた大《だい》なる功績を担《にな》うものである。
 私は近頃|数寄屋橋外《すきやばしそと》に、虎の門|金毘羅《こんぴら》の社前に、神田|聖堂《せいどう》の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

 戸川秋骨《とがわしゅうこつ》君が『そのままの記』に霜の戸山《とやま》ヶ|原《はら》という一章がある。戸山ヶ原は旧|尾州侯御下屋舗《びしゅうこうおしもやしき》のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場《しゃてきば》となっている。この辺《あたり》豊多摩郡《とよたまごおり》に属し近き頃まで杜鵑花《つつじ》の名所であったが、年々人家|稠密《ちゅうみつ》していわゆる郊外の新開町《しんかいまち》となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君|曰《いわ》く
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戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開《こうかい》した地《ち》である。目白《めじろ》の奥から巣鴨《すがも》滝《たき》の川《がわ》へかけての平野は、さらに広い武蔵野《むさしの》の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡《すべ》て耒耜《らいし》が加えられている。立派に耕作された畠地《はたち》である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹《たちき》が沢山にある。大きくはないが喬木《きょうぼく》が立ち籠《こ》めて叢林《そうりん》を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処《ここ》にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽《おお》われていて、春は摘草《つみくさ》に児女《じじょ》の自由に遊ぶに適し、秋は雅人《がじん》の擅《ほしいまま》に散歩するに任《まか》す。四季の何時《いつ》と言わず、絵画の学生が此処《ここ》其処《そこ》にカンヴァスを携《たずさ》えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他《た》の場所に求むべからざるものである。凡《およ》そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇《ちゅうちょ》しない。
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