に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の本家《おもや》について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か上下二筋《うえしたふたすじ》の鉄条綱《てつじょうこう》が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った辺《あたり》から一帯に丘陵をなし、その麓《ふもと》には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く夏羽織《なつばおり》の裾《すそ》と袂《たもと》をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって向《むこう》へ出てしまった。私は生憎《あいにく》その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っていた。そればかりでない。私の穿《は》いていた藍縞仙台平《あいじませんだいひら》の夏袴《なつばかま》は死んだ父親の形見でいかほど胸高《むなだか》に締《し》めてもとかくずるずると尻下《しりさが》りに引摺《ひきず》って来る。久米君は見兼《みか》ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の鼻緒《はなお》を踏〆《ふみし》め、紬《つむぎ》の一重羽織《ひとえばおり》の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の股立《もちだち》を取ると、図抜けて丈《せい》の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から一跨《ひとまた》ぎに跨いでしまった。
 二人は早速|閑地《あきち》の草原を横切って、大勢《おおぜい》釣する人の集っている古池の渚《なぎさ》へと急いだ。池はその後に聳《そび》ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米《くるめ》二十余万石の城主の館《やかた》が築かれていた時分には、現在水の漂《ただよ》っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気《おぼろげ》ながら心の中《うち》に描出《えがきだ》した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気《おしげ》もなく破壊して兵営や兵器の製造場《せいぞうば》にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更《いまさら》の如くつくづくと思知るのであった。
 池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ賑《にぎやか》さである。鰌《どじょう》と鮒《ふな》と時には大きな鰻《うなぎ》が釣れるという事だ。私たちは水際《みずぎわ》を廻って崖の方へ通ずる小径《こみち》を攀登《よじのぼ》って行くと、大木の根方《ねがた》に爺《じじい》が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの親爺《おやじ》の商法にさすがのわれわれも聊《いささ》か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の所在《ありか》を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方《かなた》なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで委《くわ》しく話してくれた。
 名所古蹟は何処《いずく》に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯《ただ》その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋《つな》がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の台石《だいいし》であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く見下《みおろ》す崖地《がけち》の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の根方《ねがた》と、また深く雑草に埋《うず》められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち転《ころ》げている石を見つけたばかりである。しかしここに来《きた》るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも幽邃《ゆうすい》なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳|椎《しい》樫《かし》杉椿なぞの大木に交《まじ》って扇骨木《かなめ》八《や》ツ手《で》なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様|七重八重《ななえやえ》にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の撓《たわ》むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ寄生木《やどりぎ》が大樹の瘤《こぶ》や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく囀《さえず》る小鳥の声が鋭く梢《こずえ》から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に袴《はかま》の裾《すそ》を潤《うるお》しながら、この森蔭の
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