としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に去歳《きょさい》木下杢太郎《きのしたもくたろう》氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の一端《いったん》を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
小林翁の東京風景画は古河黙阿弥《ふるかわもくあみ》の世話狂言「筆屋幸兵衛《ふでやこうべえ》」「明石島蔵《あかしのしまぞう》」などと並んで、明治初年の東京を窺《うかが》い知るべき無上の資料である。維新の当時より下《くだ》って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって甚《はなは》だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄《ひよりげた》の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉《つと》めている。しかし小林翁の版物《はんもの》に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経《た》たぬ中《うち》、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次《ぜんじ》跡方《あとかた》もなく消滅して行きつつある。明治六年|筋違見附《すじかいみつけ》を取壊してその石材を以て造った彼《か》の眼鏡橋《めがねばし》はそれと同じような形の浅草橋《あさくさばし》と共に、今日は皆鉄橋に架《か》け替えられてしまった。大川端《おおかわばた》なる元柳橋《もとやなぎばし》は水際に立つ柳と諸共《もろとも》全く跡方なく取り払われ、百本杭《ひゃっぽんぐい》はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台《とうみょうだい》、日本銀行前なる常盤橋《ときわばし》その他《た》数箇所に過ぎまい。官衙《かんが》の建築物の如きも明治当初のままなるものは、桜田外《さくらだそと》の参謀本部、神田橋内《かんだばしうち》の印刷局、江戸橋際《えどばしぎわ》の駅逓局《えきていきょく》なぞ指折り数えるほどであろう。
閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。
しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。芝赤羽根《しばあかばね》の海軍造兵廠《かいぐんぞうへいしょう》の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯《ありまこう》の屋舗跡《やしきあと》で、現在|蠣殻町《かきがらちょう》にある水天宮《すいてんぐう》は元この邸内にあったのである。一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『東都名勝』の中《うち》赤羽根の図を見ると柳の生茂《おいしげ》った淋しい赤羽根川《あかばねがわ》の堤《つつみ》に沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続《たちつづ》いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟《のぼり》が幾筋となく閃《ひらめ》いている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁《なまこかべ》の長屋と朱塗《しゅぬり》の御守殿門《ごしゅでんもん》とは去年の春頃までは半《なか》ば崩れかかったままながらなお当時の面影《おもかげ》を留《とど》めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
その時分――今年の五月頃の事である。友人|久米《くめ》君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚《ふるづか》が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は慶応義塾《けいおうぎじゅく》の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を踏入《ふみい》れた。猫塚の噂《うわさ》は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に小径《こみち》をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。
私たち二人は三田通《みたどおり》に沿う外囲《そとがこい》の溝《どぶ》の縁《ふち》に立止《たちどま》って何処か這入《はい》りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも破目《やぶれめ》がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を迂廻《うかい》して赤羽根の川端まで出て見るのも業腹《ごうはら》だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも退儀《たいぎ》である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜《おんし》財団|済生会《さいせいかい》とやらいう札を下げた門口《もんぐち》を見付けて、用事あり気に其処《そこ》から構内《かまえうち》へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように寂《しん》として、更
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