然るに如何《いか》にして大久保の辺《ほとり》に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の賜《たまもの》である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場《しゃてきじょう》で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分は殆んど不用の地であるかの如く、市民もしくは村民の蹂躙《じゅうりん》するに任してある。騎馬の兵士が大久保|柏木《かしわぎ》の小路《こみち》を隊をなして駆《は》せ廻るのは、甚《はなは》だ五月蠅《うるさ》いものである。否《いな》五月蠅いではない癪《しゃく》にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、意気|頗《すこぶ》る昂《あが》る如き風《ふう》あるは、われら平民の甚だ不快とする処である。しかしこの不快を与うるその大機関は、また古《いにしえ》の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。思えば世の中は不思議に相贖《あいあがな》うものである。一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。
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 秋骨君が言う処|大《おおい》にわが意を得たものである。こは直《ただち》に移して代々木《よよぎ》青山《あおやま》の練兵場または高田《たかた》の馬場《ばば》等に応用する事が出来る。晩秋の夕陽《ゆうひ》を浴びつつ高田の馬場なる黄葉《こうよう》の林に彷徨《さまよ》い、あるいは晴れたる冬の朝青山の原頭《げんとう》に雪の富士を望むが如きは、これ皆俗中の俗たる陸軍の賜物《たまもの》ではないか。
 私は慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原《しなのまちごんだわら》を経《へ》、青山の大通を横切って三聯隊裏《さんれんたいうら》と記《しる》した赤い棒の立っている辺《あた》りまで、その沿道の大きな建物は尽《ことごと》く陸軍に属するもの、また電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を挙《あげ》て悉く陸軍たるが如き感を深くする。それと共に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は芒《すすき》の穂を眺めて、秋骨君のいわゆる応報の説に同感するのである。
 四谷《よつや》鮫《さめ》ヶ|橋《ばし》と赤坂離宮《あかさかりきゅう》との間に甲武鉄道《こうぶてつどう》の線路を堺《さかい》にして荒草《こうそう》萋々《せいせい》たる火避地《ひよけち》がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床《かみゆいどこ》へ行った帰途《かえりみち》または買物にでも出た時、法蔵寺横町《ほうぞうじよこちょう》だとかあるいは西念寺横町《さいねんじよこちょう》だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋|谷町《たにまち》へ下《お》り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然《おのず》とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄《ゆうばえ》とを眺めるのである。
 この散歩は道程《みちのり》の短い割に頗《すこぶ》る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠《すくな》くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船《こえぶね》と製造場《せいぞうば》とを背景にする水場《みずば》の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立《こだち》の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃《ひらめか》している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌《も》え出《い》で四辺《あたり》の木立に若葉の緑が滴《したた》る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層《ひとしお》汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与《あずか》れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺《そそ》ぐ夕暮なぞには破れた障子《しょうじ》にうつる燈火の影、鴉《からす》鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。
 この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向《むこう》にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀《どべい》が乾《いぬい》の御門というのを中央《なか》にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀登《よじのぼ》っている。日頃|人通《ひとどおり》の少ない処とて古風な練塀《ねりべい》とそれを蔽《おお》う樹木とは殊に気高《けだか》く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五本乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄《あゆみよ》った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆《あし》の茂りが夕風に
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