そよいでいて、井戸のように深くなった凹味《くぼみ》の底へと、大方《おおかた》御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰《せき》にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍《ほたる》が飛ぶにちがいない。私はこの夕《ゆうべ》ばかり夏の黄昏《たそがれ》の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾《うら》みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵《きびす》を返した。
鮫ヶ橋の貧民窟は一時|代々木《よよぎ》の原《はら》に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった暁《あかつき》四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下《みおろ》しでもすると国家の恥辱《ちじょく》になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の空景気《からげいき》で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、西念寺《さいねんじ》の急な坂下に依然として剥《はげ》ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。当路《とうろ》の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除《とりのけ》を急ぐが至当であろう。
現在私の知っている東京の閑地《あきち》は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署|後《あと》の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡《あと》に観音ができあたりは日々《にちにち》町になって行く、遠からず芸者家《げいしゃや》が許可されるとかいう噂さえある。
芝浦《しばうら》の埋立地《うめたてち》も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は他《た》にあるまい。夏の夕《ゆうべ》、海の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡って、彼方《かなた》此方《こなた》に通ずる堀割から荷船《にぶね》の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものではない。
東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々《しし》として東京市の風景を毀損《きそん》する事に勉めているが、幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き毛氈《もうせん》を延《の》べ、月の光あってその上に露の珠《たま》の刺繍《ぬいとり》をする。われら薄倖《はくこう》の詩人は田園においてよりも黄塵《こうじん》の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。
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第九 崖
数ある江戸名所案内記中その最も古い方に属する『紫《むらさき》の一本《ひともと》』や『江戸惣鹿子大全《えどそうがのこたいぜん》』なぞを見ると、坂、山、窪《くぼ》、堀、池、橋なぞいう分類の下《もと》に江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷《ひびや》、谷中《やなか》、渋谷《しぶや》、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》なぞを編入したように、地理よりも実は地名の文字《もんじ》から来る遊戯的興味に基《もとづ》いた処が尠《すくな》くない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である。
私は既に期せずして東京の水と路地《ろじ》と、つづいて閑地《あきち》に対する興味をばやや分類的に記述したので、ここにもう一つ崖なる文章を付加えて見よう。
崖は閑地や路地と同じようにわが日和下駄《ひよりげた》の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。何故《なぜ》というに崖には野笹や芒《すすき》に交《まじ》って薊《あざみ》、藪枯《やぶから》しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、下水《したみず》が谷川のように潺々《せんせん》と音して流れたりしている処がある。また落掛るように斜《ななめ》に生《は》えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ宛然《えんぜん》堡塁《ほうるい》を望むが如き悲壮の観を示す。
昔から市内の崖には別にこれという名前のついた処は一つもなかったようである。『紫の一本』その他の書にも、窪、谷なぞいう分類はあるが崖という一章は設けられていない。しかし高低の甚しい東京の地勢から考えて、崖は昔も今も変りなく市中の諸処に聳《そび》えていたに相違ない。
上野から道灌山《どうかんやま》飛鳥山《あすかやま》へかけての高地の側面は崖の中《うち》で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁《しょうせきへき
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