》の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである。
小石川春日町《こいしかわかすがまち》から柳町《やなぎちょう》指《さす》ヶ|谷《や》町《ちょう》へかけての低地から、本郷《ほんごう》の高台《たかだい》を見る処々《ところどころ》には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹《き》や草の生茂《おいしげ》った崖が現れていた。根津《ねづ》の低地から弥生《やよい》ヶ|岡《おか》と千駄木《せんだぎ》の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂《いただき》に添うて、根津|権現《ごんげん》の方から団子坂《だんござか》の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中《うち》で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側《かたかわ》は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危《あやぶ》まれるばかり、足下《あしもと》を覗《のぞ》くと崖の中腹に生えた樹木の梢《こずえ》を透《すか》して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向《むこう》は一面に遮《さえぎ》るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行衛《ゆくえ》をも見極められる。左手には上野谷中《うえのやなか》に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処《そこ》より起る雑然たる巷《ちまた》の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
[#ここから2字下げ]
かの平和なる物のひびきは
街《まち》より来る……
[#ここで字下げ終わり]
といったような心持を起させる。
当代の碩学《せきがく》森鴎外《もりおうがい》先生の居邸《きょてい》はこの道のほとり、団子坂《だんござか》の頂《いただき》に出ようとする処にある。二階の欄干《らんかん》に彳《たたず》むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼《かんちょうろう》と名付けられたのだと私は聞伝えている。[#ここから割り注]団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。[#ここで割り注終わり]度々私はこの観潮楼に親しく先生に見《まみ》ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度《ひとたび》もまだ潮《うしお》を観《み》る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色《ねいろ》の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋《しょしゅう》の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫《しばら》くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間《ふたま》かと記憶している。一間《いっけん》の床《とこ》には何かいわれのあるらしい雷《らい》という一字を石摺《いしずり》にした大幅《たいふく》がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶《かへい》が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外《ほか》は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖《ふすま》の明放《あけはな》してある次の間《ま》を窺《うかが》うと、中央《まんなか》に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出《ひきだし》もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯《すずり》もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後《うしろ》に立てた六枚屏風《ろくまいびょうぶ》の裾《すそ》からは、紐《ひも》で束《たば》ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端《かたはし》が見えたので、私はそっと首を延して差覗《さしのぞ》くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際《かべぎわ》に高く積重ねてあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更《ことさら》人の見る処に飾立《かざりた》てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖《かんぺき》であろう。私は『柵草紙《しがらみぞうし》』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重《ちんちょう》に考え始めようとした。あたかもその時である。一際《ひときわ》高く漂《ただよ》い来る木犀《もくせい》の匂と共に、上野の鐘声《しょうせい》は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間《ま》の私を驚かしたのである。
私は振返って音のする方を眺めた。千駄木《せんだぎ》の崖上《がけうえ》から見る彼《か》の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄《ぼあい》に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火《とうか》を輝《かがやか》し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏《たそがれ》の微光をば夢のように残してい
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