た。私はシャワンの描《えが》いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里《パリー》の夜景を見下《みおろ》している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
鐘の音《ね》は長い余韻の後を追掛け追掛け撞《つ》き出されるのである。その度《たび》ごとにその響の湧出《わきいづ》る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄《ききす》ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段《はしごだん》を上《あが》って来られたのである。金巾《かなきん》の白い襯衣《シャツ》一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿《は》いておられたので、何の事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧《すす》められる。もし先生の生涯に些《いささ》かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
この夕《ゆうべ》、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺《うかが》って、夜《よ》も九時過再び千駄木の崖道をば根津権現《ねづごんげん》の方へ下《お》り、不忍池《しのばずのいけ》の後《うしろ》を廻ると、ここにも聳《そび》え立つ東照宮《とうしょうぐう》の裏手一面の崖に、木《こ》の間《ま》の星を数えながらやがて広小路《ひろこうじ》の電車に乗った。
私の生れた小石川《こいしかわ》には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷《みょうがだに》の小径《こみち》から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂《きりしたんざか》が斜《ななめ》に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町《こびなただいまち》の裏へと攀登《よじのぼ》っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払《きりはら》われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨《たいう》か何かのために突然|真四角《まっしかく》な大きな横穴が現われ、何処《どこ》まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。
この茗荷谷を小日向|水道町《すいどうちょう》の方へ出ると、今も往来の真中に銀杏《いちょう》の大木が立っていて、草鞋《わらじ》と炮烙《ほうろく》が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この水道端《すいどうばた》の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、種々《いろいろ》の形をした棟門《むねもん》を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと音羽《おとわ》へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂《いただき》にちらばらと喬木《きょうぼく》が立っている。崖の草枯れ黄《きば》み、この喬木の冬枯《ふゆがれ》した梢《こずえ》に烏が群《むれ》をなして棲《とま》る時なぞは、宛然《さながら》文人画を見る趣がある。これと対して牛込《うしごめ》の方を眺めると赤城《あかぎ》の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人《しょくさんじん》の東豊山《とうほうざん》十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く
[#ここから2字下げ]
東豊山|新長谷寺目白不動尊《しんちょうこくじめじろふどうそん》のたゝせ玉へる山は宝永の頃|再昌院法印《さいしょういんほういん》のすめる関口《せきぐち》の疏儀荘《そぎしょう》よりちかければ西南《せいなん》にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の白雪《しらゆき》をながめ千町《せんちょう》の田面《たのも》のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又|物部《もののべ》の翁《おきな》の牛込《うしごめ》にいませし頃にやありけん南郭《なんかく》春台《しゅんだい》蘭亭《らんてい》をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし一巻《いっかん》をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけし
前へ
次へ
全35ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング