たにかかわらず、今以て何処《どこ》となく駅路の臭味《しゅうみ》が去りやらぬような心持がする。殊に広い一本道のはずれに淋しい冬の落日を望み、西北《にしきた》の寒風《かんぷう》に吹付けられながら歩いて行くと、何ともなく遠い行先の急がれるような心持がして、電車自転車のベルの音《ね》をば駅路の鈴に見立てたくなるのも満更《まんざら》無理ではあるまい。
 東京における夕陽《せきよう》の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする。山の手は庭に垣根に到る処|新樹《しんじゅ》の緑|滴《したた》らんとするその木立《こだち》の間よりタ陽の空|紅《くれない》に染出《そめいだ》されたる美しさは、下町の河添《かわぞい》には見られぬ景色である。山の手のその中《なか》でも殊に木立深く鬱蒼とした処といえば、自《おのずか》ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の鬼子母神《きしもじん》、高田《たかた》の馬場《ばば》の雑木林《ぞうきばやし》、目黒の不動、角筈《つのはず》の十二社《じゅうにそう》なぞ、かかる処は空を蔽う若葉の間より夕陽を見るによいと同時に、また晩秋の黄葉《こうよう》を賞するに適している。夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落《ごうこりんらく》の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。
 ここに夕陽《せきよう》の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連《つらな》る箱根《はこね》大山《おおやま》秩父《ちちぶ》の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今なお最もよくこの眺望に適した処で、その他|九段坂上《くだんざかうえ》の富士見町通《ふじみちょうどおり》、神田駿河台《かんだするがだい》、牛込寺町辺《うしごめてらまちへん》も同様である。
 関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児《えどっこ》は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇《ほこり》となした。西に富士ヶ根東に筑波《つくば》の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間|葛飾北斎《かつしかほくさい》『富嶽三十六景』の錦絵《にしきえ》を描《えが》くや、その中《うち》江戸市中より富士を望み得る処の景色《けいしょく》凡《およ》そ十数個所を択んだ。曰《いわ》く佃島《つくだじま》、深川万年橋《ふかがわまんねんばし》、本所竪川《ほんじょたてかわ》、同じく本所|五《いつ》ツ目《め》羅漢寺《らかんじ》、千住《せんじゅ》、目黒、青山竜巌寺《あおやまりゅうがんじ》、青山|穏田水車《おんでんすいしゃ》、神田駿河台《かんだするがだい》、日本橋橋上《にほんばしきょうじょう》、駿河町越後屋店頭《するがちょうえちごやてんとう》、浅草本願寺《あさくさほんがんじ》、品川御殿山《しながわごてんやま》、及び小石川の雪中《せっちゅう》である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。しかし北斎及びその門人|昇亭北寿《しょうていほくじゅ》また一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを俟《ま》たない。北寿が和蘭陀風《オランダふう》の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日|目《ま》のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂《かんだせいどう》の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に佇《たたず》んで西の方《かた》を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には造兵廠《ぞうへいしょう》の樹木と並んで牛込《うしごめ》市《いち》ヶ|谷《や》辺《へん》の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込|揚場辺《あげばへん》の河岸《かし》まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の夕陽《せきよう》に照されて雲と霞は五色《ごしき》に輝き山は紫に空は紅《くれない》に染め尽される折である。
 当世人《とうせいじん》の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類《たぐい》のもので、清夜《せいや》に月光を賞し、春風《しゅんぷう》に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射《さ》そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は挙《こぞ》って気障《きざ》な宗匠《そうしょう》か何ぞのように手厳《てひど》く擯斥《ひんせき》するにちがいない
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