屋根、玉垣なぞをば、或時は人家の屋根の上、或時は路地の突当りなぞ思いも掛けぬ物の間からいろいろに変化さして見せる。私はまたこういう静な坂の中途に小じんまりした貸家を見付ると用もないのに必ず立止っては仔細《しさい》らしく貼札《はりふだ》を読む。何故《なぜ》というに神社の境内に近く佗住居《わびずまい》して読書に倦《う》み苦作につかれた折|窃《そっ》と着のみ着のまま羽織《はおり》も引掛《ひっか》けず我が家《や》の庭のように静な裏手から人なき境内に歩入《あゆみい》って、鳩の飛ぶのを眺めたり額堂《がくどう》の絵馬《えま》を見たりしたならば、何思うともなく唯茫然として、容易《たやす》くこの堪えがたき時間を消費する事が出来はせまいかと考えるからである。
東京の坂の中《うち》にはまた坂と坂とが谷をなす窪地《くぼち》を間にして向合《むかいあわせ》に突立っている処がある。前章市内の閑地《あきち》を記したる条《じょう》に述べた鮫《さめ》ヶ|橋《はし》の如き、即ちその前後には寺町《てらまち》と須賀町《すがちょう》の坂が向合いになっている。また小石川|茗荷谷《みょうがだに》にも両方の高地《こうち》が坂になっている。小石川|柳町《やなぎちょう》には一方に本郷より下《おり》る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対時《たいじ》している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然|温泉場《おんせんば》の街が出来たのかと思わせるような処さえある。
市《いち》ヶ|谷《や》谷町《たにまち》から仲之町《なかのちょう》へ上《のぼ》る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂《ねんぶつざか》という。麻布飯倉《あざぶいいくら》のほとりにも同じような石段の坂が立っている。雁木坂《がんぎざか》と呼ぶ。これらの石級《せききゅう》磴道《とうどう》はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危《あやう》くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心|窃《ひそか》に念じているのである。
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第十一 夕陽 附富士眺望
東都の西郊|目黒《めぐろ》に夕日《ゆうひ》ヶ|岡《おか》というがあり、大久保《おおくぼ》に西向天神《にしむきてんじん》というがある。倶《とも》に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざかかる辺鄙《へんぴ》の岡に杖を留《とど》めて夕陽《ゆうひ》を見るが如き愚をなすものはあるまい。しかし私は日頃|頻《しきり》に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と夕陽《せきよう》との関係甚だ浅からざる事を知った。
立派な二重橋の眺望も城壁の上なる松の木立《こだち》を越えて、西の空一帯に夕日の燃立《もえた》つ時最も偉大なる壮観を呈する。暗緑色の松と、晩霞《ばんか》の濃い紫と、この夕日の空の紅色《こうしょく》とは独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。
夕焼《ゆうやけ》の空は堀割に臨む白い土蔵《どぞう》の壁に反射し、あるいは夕風を孕《はら》んで進む荷船《にぶね》の帆を染めて、ここにもまた意外なる美観をつくる。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四谷《よつや》麹町《こうじまち》青山《あおやま》白金《しろかね》の大通《おおどおり》の如く、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便宜である。神田川《かんだがわ》や八丁堀《はっちょうぼり》なぞいう川筋、また隅田川《すみだがわ》沿岸の如きは夕陽《せきよう》の美を俟《ま》たざるも、それぞれ他の趣味によって、それ相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂《めぐろぎょうにんざか》に至る街路の如きは、以前からいやに駄々広《だだっぴろ》いばかりで、何一ツ人の目を惹《ひ》くに足るべきものもなく全く場末《ばすえ》の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の風情《ふぜい》を増しはせぬ。風が吹けば砂烟《すなけむり》に行手は見えず、雨が降れば泥濘《でいねい》人の踵《きびす》を没せんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く夕陽《ゆうひ》の関係あるがためのみである。
これらの大通は四谷青山白金|巣鴨《すがも》なぞと処は変れど、街の様子は何となく似通《にかよ》っている。昔四谷通は新宿より甲州《こうしゅう》街道また青梅《おうめ》街道となり、青山は大山《おおやま》街道、巣鴨は板橋を経て中仙道《なかせんどう》につづく事江戸絵図を見るまでもなく人の知る所である。それがためか、電車開通して街路の面目一新し
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