最もよくその偉大を示すというべきである。古来その眺望よりして最も名高きは赤坂霊南坂上《あかさかれいなんざかうえ》より芝|西《にし》の久保《くぼ》へ下りる江戸見坂《えどみざか》である。愛宕山《あたごやま》を前にして日本橋京橋から丸の内を一目《ひとめ》に望む事が出来る。芝|伊皿子台上《いさらごだいうえ》の汐見坂《しおみざか》も、天然の地形と距離との宜《よろ》しきがために品川の御台場《おだいば》依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様、これに因《よ》ってこれを観《み》れば古来江戸名所に数えらるる地点|悉《ことごと》く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。
 今市中の坂にして眺望の佳《か》なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂《しょうへいざか》は駿河台岩崎邸門前《するがだいいわさきていもんぜん》の坂と同じく万世橋《まんせいばし》を眼の下に神田川《かんだがわ》を眺むるによろしく、皀角坂《さいかちざか》[#ここから割り注]水道橋内駿河台西方[#ここで割り注終わり]は牛込麹町の高台並びに富嶽《ふがく》を望ましめ、飯田町《いいだまち》の二合半坂《にごうはんざか》は外濠《そとぼり》を越え江戸川の流を隔てて小石川|牛天神《うしてんじん》の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは則《すなわ》ち小石川|伝通院《でんづういん》前の安藤坂《あんどうざか》で、それと並行する金剛寺坂《こんごうじざか》荒木坂《あらきざか》服部坂《はっとりざか》大日坂《だいにちざか》などは皆|斉《ひと》しく小石川より牛込|赤城番町辺《あかぎばんちょうへん》を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の夕靄《ゆうもや》の中《うち》より人家の灯《ひ》のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に粧《よそ》わるる初夏《しょか》晴天の日である。もしそれ明月|皎々《こうこう》たる夜、牛込神楽坂《うしごめかぐらざか》浄瑠璃坂《じょうるりざか》左内坂《さないざか》また逢坂《おうさか》なぞのほとりに佇《たたず》んで御濠《おほり》の土手のつづく限り老松の婆娑《ばさ》たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。
 坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも強《あなが》ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜《さぐ》らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町《よつやあいずみちょう》の暗闇坂《くらやみざか》、麻布二之橋向《あざぶにのはしむこう》の日向坂《ひゅうがざか》の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の上《のぼ》らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺《ぜんちょうじ》の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮《さえぎ》り、乱塔婆《らんとうば》に雑草|生茂《おいしげ》る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる新堀川《しんほりかわ》の濁水《だくすい》とそれに架《かか》った小橋《こばし》と、斜《ななめ》に坂を蔽う一株《ひとかぶ》の榎《えのき》との配合が自《おのずか》ら絵になるように甚だ面白く出来ている。振袖火事《ふりそでかじ》で有名な本郷本妙寺《ほんごうほんみょうじ》向側の坂もまたその麓を流るる下水と小橋とのために私の記憶する処である。赤坂喰違《あかさかくいちがい》より麹町清水谷《こうじまちしみずだに》へ下《くだ》る急な坂、また上二番町辺樹木谷《かみにばんちょうへんじゅもくだに》へ下《おり》る坂の如きは下弦の月鎌の如く樹頭に懸る冬の夜《よ》、広大なるこの辺《へん》の屋敷屋敷の犬の遠吠え聞ゆる折なぞ市中とは思えぬほどのさびしさである。坂はまた土地の傾斜に添うて立つ家屋塀樹木等の見通しによって大《おおい》に眼界を美ならしむる。則ち旧|加州侯《かしゅうこう》の練塀《ねりべい》立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、麻布長伝寺《あざぶちょうでんじ》の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の如きはその実例である。
 私はまた坂の中《うち》で神田明神《かんだみょうじん》の裏手なる本郷の妻恋坂《つまごいざか》、湯島天神裏花園町《ゆしまてんじんうらはなぞのちょう》の坂、また少しく辺鄙《へんぴ》なるを厭《いと》わずば白金清正公《しろかねせいしょうこう》のほとりの坂、さては牛込築土明神裏手《うしごめつくどみょうじんうらて》の坂、赤城《あかぎ》明神裏門より小石川|改代町《かいたいまち》へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をば何となく特徴あるように思い、通る度《たび》ごとに物珍らしくその辺《へん》を眺めるのである。坂になった土地の傾斜は境内《けいだい》の鳥居や銀杏《いちょう》の大木や拝殿の
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