すくな》くはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の縁日《えんにち》にボッタラ焼《やき》をやくか※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉細工《しんこざいく》でもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が横風《おうふう》に靴音高くがらりと人の家《うち》の格子戸《こうしど》を明け田舎訛《いなかかま》りの高声《たかごえ》に奥様はおいでかなぞと、ややともすれば強請《ゆすり》がましい凄味《すごみ》な態度を示すに引き比べて昔ながらの脚半《きゃはん》草鞋《わらじ》に菅笠《すげがさ》をかぶり孫太郎虫《まごたろうむし》や水蝋《いぼた》の虫《むし》箱根山《はこねやま》山椒《さんしょ》の魚《うお》、または越中富山《えっちゅうとやま》の千金丹《せんきんたん》と呼ぶ声。秋の夕《ゆうべ》や冬の朝《あした》なぞこの声を聞けば何《なに》とも知れず悲しく淋しい気がするではないか。
 されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探《さぐ》りこれが保存を主張しようという訳でもない。如何《いかん》となれば現代人の古美術保存という奴がそもそも古美術の風趣を害する原因で、古社寺の周囲に鉄の鎖を張りペンキ塗《ぬり》の立札《たてふだ》に例の何々スベカラズをやる位ならまだしも結構。古社寺保存を名とする修繕の請負工事などと来ては、これ全く破壊の暴挙に類する事は改めてここに実例を挙げるまでもない。それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて好勝手《すきかって》なことを書いていればよいのだ。家《うち》にいて女房《にょうぼ》のヒステリイ面《づら》に浮世をはかなみ、あるいは新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した火鉢《ひばち》を敷島《しきしま》の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。
 元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘《こうもりがさ》に日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》って行く中《うち》、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町《よこちょう》の木立《こだち》を仰ぎ、溝《どぶ》や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時《しばし》我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。
 同じ荒廃した光景でも名高い宮殿や城郭《じょうかく》ならば三体詩《さんたいし》なぞで人も知っているように、「太掖勾陳処処[#(ニ)]疑[#(フ)]。薄暮[#(ノ)]毀垣春雨[#(ノ)]裏。〔太掖《たいえき》か勾陳《こうちん》か処処《しょしょ》に疑《うたが》う。薄暮《はくぼ》の毀垣《きえん》 春雨《しゅんう》の裏《うち》。〕」あるいはまた、「煬帝[#(ノ)]春游古城在。壊宮芳草満[#(ツ)][#二]人家[#(ニ)][#一]。〔煬帝《ようだい》の春游《しゅんゆう》せる古城《こじょう》在《あ》り。壊宮《かいきゅう》の芳草《ほうそう》 人家《じんか》に満《み》つ。〕」などと詩にも歌にもして伝えることができよう。
 しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址《はいし》は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。譬《たと》えば砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煉瓦塀《れんがべい》にその片側を限られた小石川の富坂《とみざか》をばもう降尽《おりつく》そうという左側に一筋の溝川《みぞかわ》がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》の方へと曲って行く横町なぞ即《すなわち》その一例である。両側の家並《やなみ》は低く道は勝手次第に迂《うね》っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの硝子戸《ガラスど》なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの閃《ひらめ》く外《ほか》には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、仕立屋《したてや》芋屋|駄菓子屋《だがしや》挑灯屋《ちょうちんや》なぞ昔ながらの職業《なりわい》にその日の暮しを立てている家《うち》ばかりである。私は新開町《しんかいまち》の借家《しゃくや》の門口《かどぐち》によく何々商会だの何々事務所なぞという木札《きふだ》のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに引《ひき》かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧し
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