い渡世《とせい》をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう家《うち》の一人娘は今頃|周旋屋《しゅうせんや》の餌《えば》になってどこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に思到《おもいいた》ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。
 ついこの間も麻布網代町辺《あざぶあみしろちょうへん》の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や寄席《よせ》なぞのビラが崖地《がけち》の上から吹いて来る夏の風に飜《ひるがえ》っている氷屋の店先《みせさき》、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が清元《きよもと》をさらっているのを見て、いつものようにそっと歩《あゆみ》を止《と》めた。私は不健全な江戸の音曲《おんぎょく》というものが、今日の世にその命脈を保っている事を訝《いぶか》しく思うのみならず、今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺戟するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の弾《ひ》く三味線《しゃみせん》に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の下《した》で演奏せしめる世俗一般の風潮にも伴《ともな》って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの来《きた》らざる限り、次第に私をして固陋偏狭《ころうへんきょう》ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと力《つと》めても見る。同時に心柄《こころがら》なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ放擲《ほうてき》して自分の身をば他人のようにその果敢《はか》ない行末《ゆくすえ》に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を抓《つね》ってこの位《くらい》力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に恬淡洒脱《てんたんしゃだつ》を粧《よそお》っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。これがために「涙でよごす白粉《おしろい》のその顔かくす無理な酒」というような珍しくもない唄《うた》が、聞く度ごとに私の心には一種特別な刺戟を与える。私は後《うしろ》から勢《いきおい》よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通《おもてどおり》から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後《おく》れてよろよろ歩み行く処に、わが一家《いっか》の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。
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     第二 淫祠

 裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄《ひよりげた》をカラカラ鳴《なら》して行く裏通《うらどおり》にはきまって淫祠《いんし》がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或《ある》趣《おもむき》を添える上からいって淫祠は遥《はるか》に銅像以上の審美的価値があるからである。本所深川《ほんじょふかがわ》の堀割の橋際《はしぎわ》、麻布芝辺《あざぶしばへん》の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな祠《ほこら》やまた雨《あま》ざらしのままなる石地蔵《いしじぞう》には今もって必ず願掛《がんがけ》の絵馬《えま》や奉納の手拭《てぬぐい》、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾《こうかつ》にしようと力《つと》めても今だに一部の愚昧《ぐまい》なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍《ろぼう》の淫祠に祈願を籠《こ》め欠《か》けたお地蔵様の頸《くび》に涎掛《よだれかけ》をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽《むじん》や富籤《とみくじ》の僥倖《ぎょうこう》のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企《くわだ》てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。
 淫祠は大抵その縁起《えんぎ》とまたはその効験《こうけん》のあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。
 聖天様《しょうでんさま》には油揚《あぶらあげ》のお饅頭《まんじゅう》をあげ、大黒様《だいこくさま》には二股大根《ふたまただいこん》、お稲荷様《いなりさま》には油揚を献《あ》げるのは誰も皆知っている処である。芝日蔭町
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