江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質《げさくしゃかたぎ》でなければならぬ。
この頃《ごろ》私が日和下駄をカラカラ鳴《なら》して再び市中《しちゅう》の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を拒《こば》まない。しかし私の趣味の中《うち》には自《おのずか》らまた近世ヂレッタンチズムの影響も混《まじ》っていよう。千九百五年|巴里《パリー》のアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた記事と、また仏国各州の都市古蹟を歩廻《あるきまわ》った印象記とを合せて En《アン》 Flanant《フラアナン》 と題するものを公《おおやけ》にした。その時アンリイ・ボルドオという批評家がこれを機会としてヂレッタンチズムの何たるかを解剖批判した事があった。茲《ここ》にそれを紹介する必要はない。私は唯《ただ》西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を断《ことわ》って置けばよいのである。アレエは西洋人の事故《ことゆえ》その態度は無論私ほど社会に対して無関心でもなくまた肥遯的《ひとんてき》でもない。これはその本国の事情が異っているからであろう。彼は別に為すべき仕事がないからやむをえず散歩したのではない。自《みずか》ら進んで観察しようと企《くわだ》てたのだ。しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気《のんき》にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。
仏蘭西《フランス》の小説を読むと零落《おちぶ》れた貴族の家《いえ》に生れたものが、僅少《わずか》の遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の楽《たのしみ》を余所《よそ》に人交《ひとまじわ》りもできず、一生涯を果敢《はか》なく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある。こういう人たちは何か世間に名をなすような専門の研究をして見たいにもそれだけの資力がなし職業を求めて働きたいにも働く口がない。せん方なく素人画《しろうとえ》をかいたり釣をしたり墓地を歩いたりしてなりたけ金のいらないようなその日の送方《おくりかた》を考えている。私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。日本《にほん》の現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の有無《うむ》にかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女|烏合《うごう》の徒《と》を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に看客《かんきゃく》が来る。田舎の中学生の虚栄心を誘出《さそいだ》して投書を募《つの》れば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の下《もと》に弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば濡手《ぬれて》で粟《あわ》の大儲《おおもうけ》も出来る。富豪の人身攻撃から段々に強面《こわもて》の名前を売り出し懐中《ふところ》の暖くなった汐時《しおどき》を見計《みはから》って妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを潔《いさぎよ》しとしないものは宜《よろ》しく自ら譲って退《しりぞ》くより外《ほか》はない。市中の電車に乗って行先《ゆくさき》を急ごうというには乗換場《のりかえば》を過《すぎ》る度《たび》ごとに見得《みえ》も体裁《ていさい》もかまわず人を突き退《の》け我武者羅《がむしゃら》に飛乗る蛮勇《ばんゆう》がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと省《かえり》みたならば徒《いたずら》に空《す》いた電車を待つよりも、泥亀《どろがめ》の歩み遅々《ちち》たれども、自動車の通らない横町《よこちょう》あるいは市区改正の破壊を免《まぬか》れた旧道をてくてくと歩くに如《し》くはない。市中の道を行くには必《かならず》しも市設の電車に乗らねばならぬと極《きま》ったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として濶歩《かっぽ》すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は亜米利加風《アメリカふう》の努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。髯《ひげ》を生《はや》し洋服を着てコケを脅《おど》そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の蓄《たくわえ》なく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する阿諛《あゆ》の目的物なぞ一切|皆無《かいむ》たりとも、なお優游《ゆうゆう》自適の生活を営《いとな》む方法は尠《
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