たちの下駄の歯に小径《こみち》は縦横に踏開かれ、昼は子供の遊場《あそびば》、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が素人相撲《しろうとずもう》を催すのも閑地があるためである。
 市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の込合《こみあ》う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々|紺屋《こうや》の干場《ほしば》または元結《もとゆい》の糸繰場《いとくりば》なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には直《ただち》に北斎《ほくさい》の画題を思起《おもいおこ》させる。いつぞや芝白金《しばしろかね》の瑞聖寺《ずいしょうじ》という名高い黄檗宗《おうばくしゅう》の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が頻《しきり》と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその辺《へん》の貧しい人家などに対照して、私は俳人|其角《きかく》が茅場町薬師堂《かやばちょうやくしどう》のほとりなる草庵の裏手、蓼《たで》の花穂《はなほ》に出でたる閑地に、文七《ぶんしち》というものが元結こぐ車の響をば昼も蜩《ひぐらし》に聞きまじえてまた殊更の心地し、
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文七にふまるな庭のかたつむり
元結のぬる間はかなし虫の声
大絃《たいげん》はさらすもとひに落《おつ》る雁《かり》
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なぞと吟《ぎん》じたる風流の故事を思浮《おもいうか》べたのであった。この事は晋子《しんし》が俳文集『類柑子《るいこうじ》』の中《うち》北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。

 私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町《かんだみさきちょう》の調練場跡《ちょうれんばあと》は人殺《ひとごろし》や首縊《くびくくり》の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。小石川富坂《こいしかわとみざか》の片側は砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の火避地《ひよけち》で、樹木の茂った間の凹地《くぼち》には溝《みぞ》が小川のように美しく流れていた。下谷《したや》の佐竹《さたけ》ヶ|原《はら》、芝《しば》の薩摩原《さつまつばら》の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。
 銀座通に鉄道馬車が通って、数寄屋橋《すきやばし》から幸橋《さいわいばし》を経て虎《とら》の門《もん》に至る
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