ことの出来ぬ平民は大道と大道との間に自《おのずか》ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目《めんぼく》体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響《じひびき》に午睡《ごすい》の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕《ゆうべ》は格子戸《こうしど》の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜《よ》は置炬燵《おきごたつ》に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引《かなぼうひき》の女房によって仔細に伝えられ、喘息持《ぜんそくもち》の隠居が咳嗽《せき》は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中《うち》に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡《すべ》てこの世界のあくまで下世話《げせわ》なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸《こうしど》、溝板《どぶいた》、物干台《ものほしだい》、木戸口《きどぐち》、忍返《しのびがえし》なぞいう道具立《どうぐだて》と一致している。この点よりして路地はまた渾然《こんぜん》たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。
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第八 閑地
市中《しちゅう》の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最《も》う一つある。それは閑地《あきち》である。市中繁華なる街路の間に夕顔|昼顔《ひるがお》露草|車前草《おおばこ》なぞいう雑草の花を見る閑地である。
閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは地面師《じめんし》ならぬ限り予《あらかじ》めこれを知る事が出来ない。唯《ただ》その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は強《し》いて捜し歩かずとも市中|到《いた》るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて普請《ふしん》が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の家《うち》が取払われて、或《ある》場合には火事で焼けたりして爰《ここ》に別の閑地ができる。そして一雨《ひとあめ》降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして蝶々《ちょうちょう》蜻蛉《とんぼ》やきりぎりすの飛んだり躍《は》ねたりする野原になってしまうと、外囲《そとがこい》はあってもないと同然、通り抜ける人
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