間の外濠《そとぼり》には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の日比谷《ひびや》公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に夕陽《ゆうひ》のさす景色は目《ま》のあたり武蔵野《むさしの》を見るようであった。その時分に比すれば大名小路《だいみょうこうじ》の跡なる丸《まる》の内《うち》の三菱《みつびし》ヶ|原《はら》も今は大方|赤煉瓦《あかれんが》の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は鍛冶橋《かじばし》を渡って丸の内へ這入《はい》る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故《なぜ》というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い水潦《みずたまり》が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく漂《ただよ》うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那|辺《へん》にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで幾度《いくど》も見た事があるような気がする。
桜田見附《さくらだみつけ》の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の堀端《ほりばた》を通りながら眺めると、閑地のやや小高《こだか》くなっている処に、雑草や野蔦《のづた》に蔽《おお》われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた霞《かすみ》ヶ|関《せき》の坂に面した一方に今だに一棟《ひとむね》か二棟ほど荒れたまま立っている平家《ひらや》の煉瓦造を望むと、御老中御奉行《ごろうじゅうごぶぎょう》などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。
明治十年頃|小林清親翁《こばやしきよちかおう》が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺《もくはんずり》にした東京名所の図の中《うち》に外《そと》桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に皇城《こうじょう》の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気《ちき》を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟《あいま》って遺憾なく紙面に躍如
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