るべき風景も建築もある訳ではない。既に宝晋斎其角《ほうしんさいきかく》が『類柑子《るいこうじ》』にも「隅田川絶えず名に流れたれど加茂《かも》桂《かつら》よりは賤《いや》しくして肩落《かたおち》したり。山並《やまなみ》もあらばと願はし。目黒《めぐろ》は物ふり山坂《やまさか》おもしろけれど果てしなくて水遠し、嵯峨《さが》に似てさみしからぬ風情《ふぜい》なり。王子《おうじ》は宇治《うじ》の柴舟《しばぶね》のしばし目を流すべき島山《しまやま》もなく護国寺《ごこくじ》は吉野《よしの》に似て一目《ひとめ》千本の雪の曙《あけぼの》思ひやらるゝにや爰《ここ》も流《ながれ》なくて口惜《くちお》し。住吉《すみよし》を移奉《うつしまつ》る佃島《つくだじま》も岸の姫松の少《すくな》きに反橋《そりばし》のたゆみをかしからず宰府《さいふ》は崇《あが》め奉《たてまつ》る名のみにして染川《そめかわ》の色に合羽《かっぱ》ほしわたし思河《おもいかわ》のよるべに芥《あくた》を埋《うず》む。都府楼観音寺唐絵《とふろうかんのんじからえ》と云はんに四ツ目の鐘の裸《はだか》なる、報恩寺《ほうおんじ》の甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]の白地《しらじ》なるぞ屏風《びょうぶ》立てしやうなり。木立《こだち》薄く梅紅葉《うめもみじ》せず、三月の末藤にすがりて回廊に筵《むしろ》を設くるばかり野には心もとまらず……云々《うんぬん》。」そして其角は江戸名所の中《うち》唯ひとつ無疵《むきず》の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。それは昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の類《たぐい》の夥《おびただ》しく出板《しゅっぱん》されたのを見ても容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は物見遊山《ものみゆさん》を好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を訪《と》う事は即ち風流な最も上品な嗜《たしな》みとして尊ばれていたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、時にはこれを衒《てら》ったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の天明《てんめい》以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも
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