れは竹橋の方から這入って来ると御城内《ごじょうない》代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を曳《ひ》くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この辺《へん》がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次《ぜんじ》に麹町|四谷《よつや》の方へと高くなっているのである。夏の炎天には私も学校の帰途《かえりみち》井戸の水で車力や馬方と共に手拭《てぬぐい》を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の立札《たてふだ》が付物《つきもの》になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。かくの如き眺望は敢《あえ》てここのみならず、外濠《そとぼり》の松蔭《まつかげ》から牛込《うしごめ》小石川の高台を望むと同じく先ず東京|中《ちゅう》での絶景であろう。
 私は錦町からの帰途|桜田御門《さくらだごもん》の方へ廻ったり九段《くだん》の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。しかし一年ばかりの後《のち》途中の光景にも少し飽《あ》きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻《たちもど》る事になった。その夏始めて両国《りょうごく》の水練場《すいれんば》へ通いだしたので、今度は繁華の下町《したまち》と大川筋《おおかわすじ》との光景に一方《ひとかた》ならぬ興《きょう》を催すこととなった。
 今日《こんにち》東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿《たど》るに外ならない。これに加うるに日々《にちにち》昔ながらの名所古蹟を破却《はきゃく》して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味《あじわ》おうとしたら埃及《エジプト》伊太利《イタリー》に赴《おもむ》かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷《いた》ましい思《おもい》をさせる処はあるまい。今日《きょう》看《み》て過ぎた寺の門、昨日《きのう》休んだ路傍《ろぼう》の大樹もこの次再び来る時には必《かならず》貸家か製造場《せいぞうば》になっているに違いないと思えば、それほど由緒《ゆかり》のない建築もまたはそれほど年経《としへ》ぬ樹木とても何とはなく奥床《おくゆか》しくまた悲しく打仰《うちあお》がれるのである。
 一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足
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