ら雨になる。梅雨《つゆ》の中《うち》は申すに及ばず。土用《どよう》に入《い》ればいついかなる時|驟雨《しゅうう》沛然《はいぜん》として来《きた》らぬとも計《はか》りがたい。尤《もっと》もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割《わり》なき契《ちぎり》を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ幌《ほろ》の中《うち》、しっぽり何処《どこ》ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題《それはさておき》日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返《こねかえ》す霜解《しもどけ》も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通《おおどおり》、やたらに溝《どぶ》の水を撒《ま》きちらす泥濘《ぬかるみ》とて一向驚くには及ぶまい。
私《わたし》はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
市中《しちゅう》の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の家《うち》は一時|小石川《こいしかわ》から麹町永田町《こうじまちながたちょう》の官舎へ引移《ひきうつ》った事があった。勿論《もちろん》電車のない時分である。私は神田錦町《かんだにしきちょう》の私立英語学校へ通《かよ》っていたので、半蔵御門《はんぞうごもん》を這入《はい》って吹上御苑《ふきあげぎょえん》の裏手なる老松《ろうしょう》鬱々たる代官町《だいかんちょう》の通《とおり》をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋《たけばし》を渡って平川口《ひらかわぐち》の御城門《ごじょうもん》を向うに昔の御搗屋《おつきや》今の文部省に沿うて一《ひと》ツ橋《ばし》へ出る。この道程《みちのり》もさほど遠いとも思わず初めの中《うち》は物珍しいのでかえって楽しかった。宮内省《くないしょう》裏門の筋向《すじむこう》なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎《えのき》があった。その頃その木蔭《こかげ》なる土手下の路傍《みちばた》に井戸があって夏冬ともに甘酒《あまざけ》大福餅《だいふくもち》稲荷鮓《いなりずし》飴湯《あめゆ》なんぞ売るものがめいめい荷を卸《おろ》して往来《ゆきき》の人の休むのを待っていた。車力《しゃりき》や馬方《うまかた》が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。こ
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