坂《はっけいざか》の鎧掛松《よろいかけまつ》、麻布《あざぶ》の一本松、寺島村蓮華寺《てらじまむられんげじ》の末広松《すえひろまつ》、青山竜巌寺《あおやまりゅうがんじ》の笠松《かさまつ》、亀井戸普門院《かめいどふもんいん》の御腰掛松《おこしかけまつ》、柳島妙見堂《やなぎしまみょうけんどう》の松、根岸《ねぎし》の御行《おぎょう》の松《まつ》、隅田川《すみだがわ》の首尾《しゅび》の松《まつ》なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正三年の今日幸に枯死《こし》せざるものいくばくぞや。
 青山竜巌寺の松は北斎の錦絵『富嶽卅六景《ふがくさんじゅうろっけい》』中にも描かれてある。私は大久保の佗住居《わびずまい》より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事がある。寺は青山|練兵場《れんぺいじょう》を横切って兵営の裏手なる千駄《せんだ》ヶ|谷《や》の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家《かしや》に、松は愚か庭らしい閑地《あきち》さえ見当らなかった。この近くに山の手の新日暮里《しんにっぽり》といわれて、日暮里の花見寺《はなみでら》に比較せられた仙寿院《せんじゅいん》の名園ある事は、これも『江戸名所図絵《えどめいしょずえ》』で知っている処から、日和下駄《ひよりげた》の歩きついでに尋《たず》ねあてて見れば、古びた惣門《そうもん》を潜《くぐ》って登る石段の両側に茶の木の美しく刈込まれたるに辛《から》くも昔を忍ぶのみ。庭は跡方《あとかた》もなく伐開《きりひら》かれ本堂の横手の墓地も申訳らしく僅《わずか》な地坪《じつぼ》を残すばかりであった。
 今日《こんにち》上野博物館の構内に残っている松は寛永寺《かんえいじ》の旭《あさひ》の松《まつ》または稚児《ちご》の松《まつ》とも称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の健《すこやか》なるあり。麻布|本村町《ほんむらちょう》の曹渓寺《そうけいじ》には絶江《ぜっこう》の松《まつ》、二本榎高野山《にほんえのきこうやさん》には独鈷《どっこ》の松《まつ》と称せられるものがある。その形《かたち》古き絵に比べ見て同じようなればいずれも昔のままのものであろう。

 柳は桜と共に春来ればこきまぜて都の錦を織成《おりな》すもの故、市中《しちゅう》の樹木を愛するもの決してこれを閑却
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