《かんきゃく》する訳には行《ゆ》くまい。桜には上野の秋色桜《しゅうしきざくら》、平川天神《ひらかわてんじん》の鬱金《うこん》の桜《さくら》、麻布|笄町長谷寺《こうがいちょうちょうこくじ》の右衛門桜《うえもんざくら》、青山|梅窓院《ばいそういん》の拾桜《ひろいざくら》、また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の金王桜《こんのうざくら》、柏木《かしわぎ》の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺《こまごめきちじょうじ》の並木《なみき》の桜《さくら》の如く、来歴あるものを捜《もと》むれば数多《あまた》あろうが、柳に至ってはこれといって名前のあるものは殆どないようである。
 隨の煬帝《ようだい》長安《ちょうあん》に顕仁宮《けんじんきゅう》を営《いとな》むや河南《かなん》に済渠《さいきょ》を開き堤《つつみ》に柳を植うる事一千三百里という。金殿玉楼《きんでんぎょくろう》その影を緑波《りょくは》に流す処|春風《しゅんぷう》に柳絮《りゅうじょ》は雪と飛び黄葉《こうよう》は秋風《しゅうふう》に菲々《ひひ》として舞うさまを想見《おもいみ》れば宛《さなが》ら青貝の屏風《びょうぶ》七宝《しっぽう》の古陶器を見る如き色彩の眩惑を覚ゆる。けだし水の流に柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない。東都|柳原《やなぎわら》の土手には神田川の流に臨んで、筋違《すじかい》の見附《みつけ》から浅草《あさくさ》見附に至るまで※[#「參+毛」、第3水準1−86−45]々《さんさん》として柳が生茂《おいしげ》っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋に変ってしまった。[#ここから割り注]土手を取崩したのは『武江年表』によれば明治四年四月またここに供長家を立てたのは明治十二、三年頃である。[#ここで割り注終わり]
 柳橋《やなぎばし》に柳なきは既に柳北《りゅうほく》先生『柳橋新誌《りゅうきょうしんし》』に「橋以[#レ]柳為[#レ]名而不[#レ]植[#二]一株之柳[#一]〔橋《はし》は柳《やなぎ》を以《もっ》て名《な》と為《な》すに、一株《いっしゅ》の柳《やなぎ》も植《う》えず〕」とある。しかして両国橋《りょうごくばし》よりやや川下の溝《みぞ》に小橋あって元柳橋《もとやなぎばし》といわれここに一樹の老柳《ろうりゅう》ありしは柳北先生の同書にも見えまた小林清親翁《こばやしきよちかおう
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